​まどろみの過去、うたかたの未来
佐脇水花とにっかり青江、それぞれの昔話。
​■佐脇ちゃん本丸・登場人物

×佐脇ちゃん本丸×

★第五○六本丸

★審神者:佐脇水花(初代)、佐脇清兼(二代目)

★主に刀解指定された刀剣男士で形成されている。

佐脇水花(サワキ ミナカ)

【設定】

17歳/150㎝/A型/6月22日生まれ

好きなもの:ドラえもん

嫌いなもの:孤独

苦手なもの:料理全般

【詳細設定】

★通称:佐脇ちゃん

★水中花のように儚い美少女

★男たちの加虐心を煽り、狂わせてしまう魔性の乙女

★佐脇家(魔術師の名門)の元跡取り娘。

★相続権を取り上げられた後、追い出される形で審神者になった。

★魔術の才能はあるものの、とある理由から今はほとんど使わない。

★審神者としては未熟で、付喪神を顕現することが出来ない。

★“刀解指定された刀剣男士”を集める奇妙な癖がある。

★実の父親を心から愛しており、見放された今でも父親を求めている。

★大人しく控えめな乙女で、他人に恐れを抱いており、いつも怯えている。

★何事に関しても他人を優先するものの、青江に対しては生々しい独占欲をむき出すことが多い。

★青江が求めることを彼女は絶対に拒まない。

★青江の身を飾るあれこれに金を惜しんだこともない。彼ほど豪奢な生活をしている刀剣男士はいない。

★青江のことを“あおさん”と呼び慕っている。

和製魔術

★魔術と審神者の術を掛け合わせたもの。

→通常の魔術師や審神者では難しい

★産土神である龍神と契約した事によって使えるもの。

→ややチート気味だが弱点は多々ある

★属性は水。

→自然に存在する空気中の水を利用している

戦闘服

★にっかり青江の戦闘服をイメージしたもの。

→佐脇家の特注品。機能性に優れ、霊力や魔力を温存しやすく加工されている

★ブーツ

→防水性に優れ、衝撃吸収材付き。長時間歩いても疲れづらい)

★白装束のマント

→特殊な術が施されており、攻撃等を防ぐことが出切る)

★桜の杖

→桜の木を模している特殊なもの(古来より桜の木は神様が宿ると言われている)

★桜

→宝石加工。宝石は持ち主の念を溜めやすく、魔力(霊力)を宿しやすい

★鈴

→鈴で龍神様を呼び、桜の杖に憑依させる(古来より鈴は神様を呼ぶと言われている

→そのまま薙刀のように武器としても使える

 

×刀剣男士×

にっかり青江

★通称:あおさん(佐脇ちゃん限定)

★佐脇ちゃんの恋人。

★しっとりと甘い色気を漂わせ、溶けるように艶めかしい美貌の持ち主。

★元いた本丸では“不良品”と嫌われ、刀解指定された過去がある。

★不良品である自分を認めてくれた佐脇ちゃんに異常なほどの執着心を抱いている。日常的にストーカー行為をしている。

★佐脇ちゃんと出会ってからは表情豊かになったものの、どこか狂気めいている。それ以前は表情に乏しい変わり者だった。

★愛煙家というほどでもないがタバコを嗜む。

石切丸

★佐脇ちゃんの近侍。佐脇ちゃんのことは“水花さん”と呼んでいる。

★本人の希望により刀解指定されていたが、佐脇ちゃんに拾われた。

★元いた本丸では審神者と恋仲にあり、結婚もしていた。一人娘がいたが事故死している。

★おっとりした性格で、よく顔面からズッコケる。電車オンチでもある。

★佐脇ちゃんを亡き娘と重ね合わせている為、近侍というよりは父親のようにふるまう。

前田藤四郎

★本人の希望により刀解指定されていたが、佐脇ちゃんに拾われた。

★元いた本丸は主もろとも全滅しており、それが心の傷となっている。

★佐脇ちゃんのことを“姫”と呼び、宝物のように扱う。

★佐脇ちゃんの影響からドラえもんが好きになり、月に一度はドラえもんミュージアムに行く。

へし切り長谷部

★本人の希望により刀解指定されていたが、特命により、佐脇ちゃん本丸に着任した。

★別館サイト「その名を心に宿して」の主人公。

★現主(佐脇ちゃん)を審神者として認めておらず、不信を抱いている。

★今も亡き主を心から想っており、形見の万年筆を持っている。

★元いた本丸では“物”として扱われていた過去がある。

★佐脇ちゃんのことを“水花様”と呼んでいる。

山姥切国広

★時の政府より与えられた初期刀で、この本丸唯一の新品。

★思い込みが激しく、心がとてもデリケート。馬小屋で拗ねることがある。

★佐脇ちゃんを妹のように思っており、彼女の身を案じている。

★青江のことを妖怪、モノノケと呼んでいる。

★最近ドラえもんにハマったらしいが、誰にも打ち明けられずにいる。

★後に佐脇ちゃんの息子(清兼)の近侍となる。

 

×その他登場人物×

佐脇俊兼(サワキ トシカネ)

★佐脇家の当主であり、佐脇ちゃんの父。

★生真面目な優等生だが、上級階級特有の強かさがある。

★次期当主として娘に大きな期待を寄せていたが当主として、また魔術師としての才能のなさに失望し次第に突き放すようになった。

★佐脇水花を歪ませた張本人。

新城(33)

★青江の元主。

★美女の類ではないが、奇妙な色気のある妖艶とした女。

★頼りない夫がいる。喫煙者。

★佐脇ちゃんの知らない青江を知っている。

佐脇清兼(サワキ キヨカネ)

★佐脇ちゃんと青江の息子。

★右目が義眼の美青年。母親想いの童貞。

★元軍人で、訳あって母親の本丸を引き継いだ。

★近侍の山姥切を兄のように慕っている。

★父親を嫌っている。

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​●過去と踊る 1

現世と切り離された本丸といえど、冬はけして気楽なものではなかった。海から吹き抜ける冷ややかな風は、容赦なく肉体を痛めつける。

 

しかし幸いというべきか、降雪量はそれほどでもない。適度な湿度と、それなりの寒さ、ちょっとした雪というのが本丸の冬であった。

 

当初、本丸という小さな世界に四季というものは存在しなかった。その必要性を時ノ政府が、全く感じていなかったのだ。

 

本丸は審神者と刀剣男士が、生活しやすい完璧な温度と湿度を保つ為の快適な空間でしかなった。

 

本丸に四季が設けられたのは、現世を恋しく思う審神者への、ささやかな配慮でもあった。また、四季を通して様々な訓練を、刀剣男士たちに行わせる為でもあった。

 

にっかり青江は、本丸の四季について否定するつもりはなかった。四季というのは、ある意味天とのつきあいであると彼は考えているからだ。

 

「……!」

 

背後から雪を踏みしめるあいまいな足音がした。重みがまるでない。

 

佐脇水花だった。

 

「どなたか思い出しているのですか、あおさん」

「うん?そう見えるかい?」

 

にっかり青江は振り返った。外見を裏切らない、ひどく甘やかな響きのある声だった。彼の外見には、付喪神であることを教えるものは何一つない。いい具合に仕立ての良い外套を、これ以上ないというぐらいに着こなして、彼は庭を見つめている。

 

「遠くを見つめていましたから……」

 

佐脇は心配するように、青江を健気に見つめていた。静脈が透けてしまうほど雪に似た色の肌が、太陽を浴びているせいか、おそろしいほどに色っぽく見えた。男の口付けを受け止めるだけにあるような唇が、悩ましげにふるえている。

 

その甘やかな誘惑を味わいつくすように、青江は熱ねっとりと目を細めた。

 

「ひょっとして妬いてくれているのかい?」

「そ、そういうわけでは……」

 

佐脇は耳まで血の色に染めて、思わずきっとして彼を睨んでしまった。しかし、それがとても恥ずかしいことに思えて、すぐに目をそらす。

 

その何とも言えない愛らしさに、青江の心はゆるやかに高鳴った。

 

佐脇水花は自分の前でしか自我というものを見せない。他者にどこまでも尽くしてしまう彼女の歪みを、青江はひそかに心配していた。

 

「どんな方だったのですか」

「うん、昔の主こと」

「昔の……私より前の主さん」

 

佐脇が微かな険しさのにじんだ声でたずねた。儚いざわめきが、彼女の胸を騒がせて苦しめている。まるでそれに抗うように、佐脇は腕をのばして、青江の手をとった。

 

「あまり覚えていないんだけどねぇ……」

 

悪びれる様子もなく青江はうなずいた。溶けるような美貌に、妖艶とした気配をつけ加えさせて、彼はねっとりと笑う。表情は相変わらずだが、彼の鼓動はいくらか早くなっている。

 

「とても綺麗で、優しい人だったよ」

 

青江は嘘を吐いた。

 

昔の主のことなど、彼にとってはどうでも良いことだった。好きでも嫌いでもない。ただ単に、もう興味が持てないのだ。不良品と判断され、捨てられたという強烈な記憶ですら、夢のように曖昧なものに成りはてている。

 

「……っ」

 

佐脇は彼の声に潜んでいるものに気づき、苦しげに吐息をもらした。そこからほのかに漂う彼女の香りが、どんな香水よりも甘く感じて、青江の肉体はしずかに疼いた。

 

まだ少女だというのに、女というより他はないものを、心が痺れるほどに発散させている。

 

佐脇水花は貪るために貪るのではなく、永遠に自分の側に置く手段として貪り、これ以上ないほど泣き喘がせたいと思わせる少女だった。

 

青江は昨夜のことを思い出していた。自分をしっかりと受け止めてくれた佐脇の肉体の感触や、そこからにじみ出る女の香りが甦る。

 

そして、狂わされてもいいと思ってしまうほどに甘い彼女の声。

 

あおさん、あおさん、私のかわいいあおさん。

 

「それは……嘘ですよね?」

「うん、嘘だよ」

 

青江はあっさりと白状した。彼はひどくあどけない表情を浮かべ、うなずいた。

 

「本当に覚えていないんだよねぇ。男だった気もするし、女だった気もする。たしか前の本丸にも、大きい庭があったと思うだけどねぇ……。まぁ、思い出したところで何があるってわけじゃないんだけど。時たま、元気にしてるかなって思ったりはするかな。……向こうはそんなこと思ってないんだろうけど」

 

佐脇は何も言わなかった。

 

にっかり青江は、いつも何かを隠そうとする。美しい嘘を重ねて、真実を幻のように、ひどく甘やかなものにかえてしまう。けれどそれを攻めるわけにもいかなかった。そんなこと、許されるはずもないのだ。

 

青江の嘘がかわいいものに思えてしまうほど、自分は浅ましい行為に身を沈めている。青江はそれを、当然のように許してくれているのだ。

 

それどころか、彼は実に楽しげ、嬉しげに受け入れてくれる。

 

(それでも、ずるい)

 

佐脇はひっそりと唇を噛みしめた。ずるい、ずるいわ。昔の主さんの話を持ち出すなんて。そのことを訊ねた私の方が悪く感じられてしまう。これは私のワガママかしら。それでも、やっぱりずるい。

 

「んふふっ、やっぱり妬いているのかな?」

 

青江は佐脇の様子を見て、ちらりと笑みを浮かべた。

 

「……そんなことありません」

 

佐脇は困ったように眉をさげて、ぷいと横を向いた。つややかな髪を淫らにくゆらせて、青江から視線を逸らす。

 

「……前の主さんは女の方だったんですね」

「おや、そんなに僕の昔のことが気になるのかい?」

「だってあおさんが話すから……」

 

佐脇は何かに耐えるように、一瞬だけ唇を噛む。何も食べていないのに、甘酸っぱい味が口の中でとろけるように広がっていった。

 

「……私も女ですから」

「それはうれしいことだねぇ」

 

青江はこたえた。それから、わずかに舌先で唇を湿らせて、もう一度笑った。彼のなかで、ある種の優越感が芽生えてしまったのだ。

 

佐脇は自分に対して、女のように振る舞わずにはいられなくなっている。それこそが疎まれる態度かもしれないと思いながらも、彼女はそうせずにはいられない。

 

彼はそれが嬉しくてならなかった。

 

「さて、そろそろ昔話は終わりにしようか。これといって面白いわけでもないしね」

「……なんだかずるい」

「ごめんごめん。でも本当に、もう何も覚えていないんだ。それだけは、本当だから」

「そうであれば嬉しいです……いいえ、きっと違うわ」

 

佐脇は女としての態度で、それを否定した。同時に、自分が青江の何を知っているのかと、今更ながら疑問を抱いてしまう。そう思うと、途端にすべてが怖くなってしまった。

 

(そういえば)

 

佐脇の脳裏に閃くものがあった。

 

そういえば、あおさんは私がこれまでどんな風に生きてきたか、自分から訊ねたことがない。そう、ただの一度も。どうして、どうしてなの。なにもかも知っているように振る舞う彼が。お父さんのことも……いいえ、もう気づいてるはず。それでいながら、さも知らないように振る舞うのは、どうしてなの。

 

もしかしてあおさんには、過去に女の人が。でなければあんな風に、私を抱くことなんて。だとするなら、だとするなら。

 

「ねえ、どうしたんだい?」

 

佐脇は青江を見つめた。彼女の瞳が、かすかに濡れていることに青江は気付いた。

 

「いいえ、べつに……私一人では、理由が分からないだけです」

 

その晩、にっかり青江は、満月を溶かしたように美しい瞳を煌めかせながら、佐脇水花をたっぷりと愛しぬいた。

 

けれども佐脇は、肉の悦び、その果てに眠り込んでも、全てから解放されることはなかった。もちろん、青江の想いを疑っているわけではない。彼女はそれを盲信していた。ある意味、愛していると言っていい。

 

そう、だからこそ、気にかかるのはひとつだけ。

 

(あおさんは、前の主さんをこんな風に抱いていたのかしら)

​●過去と戯れる 2

溶けるように熱い口づけが終わったのは、息苦しさに絶えられなくなったからではない。

 

「んっ……」

 

佐脇は甘い吐息をもらし、可愛らしく喘いだ。鈴の音をころがしたような声が、熱っぽく溶けていく。はなれた唇の間で、唾液が艶かしく光ながら糸をひいていた。

 

「……ちょっと苦しかった?」

 

悩ましげにため息をつきながら、青江は佐脇に身を寄せる。彼の舌先が、しずかに上唇をなめる。その淫らな行為が、佐脇の心を陶酔へと誘う。

 

「ごめんなさい……」

 

佐脇はささやいた。瞳は酔ったように潤んでいる。彼女の愛くるしい顔は、熱っぽく上気して、ほんのり汗ばんでいた。

 

「あおさん……もしかして煙草、吸ってました?」

 

潤んだ瞳が青江を見つめる。佐脇の甘やかな息に、鼻腔をくすぐられてしまう。体の芯がぼんやりと光るように、うっとりと疼いた。

 

「ごめん、臭かったよね?」

「……ちょっと甘い香りがしました」

「うん、そういう煙草なんだ。……吸ってみる?」

「もう、私は未成年ですよ……」

 

佐脇は微笑みながら、青江へ身体を押しつけだ。形よく大きな乳房がたわみながら体温を伝えてくる感触に、青江は背をふるわせる。

 

「水花ちゃんはやわらかいねぇ……」

「うん……いい香り……」

 

佐脇は瞼をとじた。

 

闇のなかで、煙草の香りがゆるやかに漂う。ほのかな甘酸っぱさと、まろやかな甘さが重なりあって、ひっそりとゆらぐ。

 

しかし……ほんの少しだけ妙な感じがした。

 

(どうしてかしら)

 

この先、どんなことをするか分かっている。お互いの服を脱がしあい、二人で見つけた気持ちの良い部分に触れあう。それらを手にとって弄びながら、思うままに溺れるのだ。

 

そう、そこまではいつものとおりだ。

 

(分からないわ)

 

心臓は破裂しそうで、身体はとろけるように熱い。子宮は疼くように痛い。細身に見えながらも、しっかりと鍛えられた青江のすべてに触れたくてたまらない。

 

しかしどういうわけか、躊躇いが生じる。意識と身体が一致しないのである。一つ一つの行為に、奇妙なほどの嫌悪感を覚えてしまう。

 

“まるで、誰かに見られているような”

 

佐脇は言いようもない苦痛を抱きながら、そっと喘ぎ声をもらした。

 

(きっと前の主さんだわ。絶対にそうよ)

 

心が焼けてしまうような思いがわく。

 

「ねぇ、どうかしたかい?」

 

青江は頬に汗ではりついた深緑の髪をなおしながら、しずかな声で訊ねた。そんな彼の仕草が、たまらなく愛しい。

 

「いえ……あの……」

 

自分でもわけがわからないままに、佐脇は顔を伏せる。

 

「その煙草……」

「やっぱり吸ってみたい?」

「いえ……その煙草……どなたに教えてもらったんですか?」

 

佐脇は甘えるように、それでいて不安げに青江を見上げた。黒く深い瞳の底に、青江の影がおぼろ気に映る。

 

青江はその瞳に潜んでいるものに気づき、困ったような笑みを浮かべた。

 

「おやおや、困ったヤキモチ焼きさんだねぇ……」

「ごめんなさい……」

「いや、構わないよ。悪い気分ではないしね。たまには気分を変えて、むかし話でもしてみるかい?」

 

冗談めいた言葉。しかし、かすかに不安の香りが漂っている。

 

「……それとも、今夜は一人で寝る?」

「それはいや……一緒にいて……」

「うん……良かった」

 

青江は安堵のつぶやきで応じ、しっとりとした指を滑らせるように、花の刺繍がされた下着へともぐり込ませる。

 

「あっ……」

 

小さく赤っぽい杏の実のようなそれが、ひんやりとした指に優しく触れられた瞬間、佐脇は子猫のような声をもらした。

 

(あおさん)

 

青江から与えられるものを、すがるように受け取りながら、佐脇は涙を流す。それは流星のように、光っては消えていく。

 

(あおさん、あおさん、あおさん、あおさん)

 

胸をゆるやかに濡らす熱いものに気づいた青江は、何かに衝かれたような表情を浮かべる。

 

「大丈夫かい、水花ちゃん……」

「ご、ごめんなさい……」

「…………」

 

青江はゆっくりと目をとじた。目をとじて、今までの、優しくはあってもどこか余裕のある表情から、慈愛に満ちあふれた顔に変わる。

 

彼は何度か唇を湿らせて、しずかに微笑んだ。

 

「いやだな……君が謝ることなんてないのに……君はなにも、悪くないんだから……ね?」

 

湿っぽくて優しい声に、佐脇の心は幸福げに耽溺する。それとともに、奇妙な嫌悪感は消え去った。どうしてこんなことを思ってしまったのか、不思議で仕方がなかった。

 

「あおさん……あおさん……」

 

佐脇は幼子のように泣きながら

、青江に頬をすりつける。まるでうたかたの光を求めるように、彼の体を撫でる。

 

「あおさん……好き……」

 

「僕もだよ……んふっ、僕たち気が合うねぇ……」

 

青江はどこまでも優しくささやいた。そして彼の手がゆっくりと、しずかに動き始める。

 

(あおさん)

 

佐脇はただこうして寄り添える幸福を噛みしめつつ、愛しくてたまらない相手にその気持ちを伝え続ける。

 

しかしそれでも、何かが満ち足りない。これ以上ないほどの幸福を与えられているというのに、どうしても満たされない。

 

(どうしてなの)

 

青江から漂う煙草の香りを嗅ぐたびに、喜びと悲しみがゆるやかに混ざりあう。そして波のようにせめぎあって、得たいの知れない不安を生みだしていく。

 

それがとても、怖くてたまらなかった。

​●過去と沈む 3

雨が降り始めた。

 

雨曇は灰色に輝いて、しっとりと滑らかな涙を、しずかに流していく。それは乙女の香気のように、ほのかな光を宿してただよう。その美しさはゆったりと呼吸して、形ない世界のなかで微笑んだ。

 

雨音が寂しげに響きわたる。

 

「傘を持ってくれば良かったですね、あおさん」

「そうだねぇ、佐脇ちゃん」

 

佐脇と青江は、ほとんど同時にため息をついた。それはゆるやかに零れ落ちて、しみじみと漂う。吐いた息が地面に積もるのであれば、二人の身体はとっくに埋まっている。

 

「せっかくだから休んでいこうか。ちょっと歩けば休憩所もあるみたいだし」

 

青江はポツリと呟いた。都内有数の庭園であろうと、雨のさなかにぶらつきたがる者は少ない。人影はほとんどなかった。ある意味、彼らにとって都合が良かった。かけがえのない時間は、露に酔って輝いている。緑雨は世界をやさしく包み込む。

 

青江は人気のない庭園を佐脇の腕をとって歩いた。彼女の体が濡れないように、マントとして用いている白装束を、そっと頭に被せてやる。そのやわらかさが気持ち良かったのか、佐脇は儚げに吐息をもらした。

 

よろしいのですかと言いたげな顔をしているくせに、なんと淫らなことだろうと、青江はひっそりと思っていた。

 

「もう少し近くにきて?」

「……はい」

 

佐脇は、最初はおずおずと、やがて遠慮なくただの女のように寄り添った。実際、そういう意味を含ませているのだろう。まるで新婚夫婦のように歩調を合わせ、青江は佐脇の肩に、佐脇は彼の腰に手をおき、目的地へと歩きつづけた。

 

庭園の奥にある涼やかな池のほとりには、小さな休憩所がある。小さいとはいっても上質な建物だった。まるで茶室を思せるそこは、雨を凌ぐには十分すぎるくらいだ。

 

佐脇を窓辺の椅子に座らせ、青江はその隣に座った。恋人としての気づかいというよりは、この場合は刀剣男士としての嗜みに近い。

 

「これでは風邪をひいてします、あおさん」

 

佐脇は思いきって言った。手にしていた鞄から、水色のタオルをとり出す。

 

「これ、使ってください。明日もお仕事があるんですから……ね?」

 

佐脇は案じた声だった。もちろん、仕事のことを言っているわけではない。

 

青江は苦笑してみせた。佐脇水花という女は、変なところで素直じゃなくなる。そこがまた狂おしいほどに愛らしいのだから、どうしようもない。もっと自分に見せて欲しいとも思ってしまうあたり、タチが悪い。

 

それを含めて佐脇水花なのだ、と青江は考えている。

 

例え自分のことを心に傷を負った子供が、猫を扱うように八つ当りしたとしても、彼女に対する愛情を失わせるには足りなかった。実際、佐脇という女は単純な愛情では捉えきれなかった。

 

普段は大人しく控えめで、ありとあらゆるものを他者に譲る女だが、自分に関わるものは全て独占したがるのだ。しかし、自分が求めることを彼女は絶対に拒まない。

 

たとえば自分の望む場所で体を求めたとしても、拒まれたことはただの一度もなかった。また、佐脇は青江の身を飾るあれこれに金を惜しんだこともない。

 

事実、彼ほど豪奢な生活をしている刀剣男士はいない。

 

「……吸ってもいいんですよ?」

 

佐脇が小さく呟いた。鈴の音を思わせる声が、ゆらゆらと揺らめいているような気がした。その儚さが、ゆるやかに悲しみを誘う。青江は寂しげに笑ってみせた。

 

「どうしたの急に。君は苦手だろ?……煙草のことだよ」

「しばらくこのままでは、その」

「平気だよ。……それより温めて欲しいな。ちょっと寒くてさ」

「……あたためる?」

「意味、分かるだろう?」

 

息をするように自然な動作で、青江は佐脇に身を寄せた。それから甘えた表情を浮かべて、佐脇を見つめる。その瞳はしっとりと湿っており、ひどく淫らな何かを含ませていた。

 

「人が来ますから」

「こんな雨のときに?」

「……ダメ、こんな場所じゃ」

「ここじゃなきゃいいのかい?」

「……もう、あおさんは」

 

佐脇は困ったように、それでいて甘やかな息をもらした。湿ったものと、審神者としての態度を混ぜ合わせた表情を浮かべ、そのまま彼を乳房へと抱き寄せる。

 

「おや、これだけかい?」

 

頭に感じる乳房の感触について考えながら、青江は訊ねた。すると佐脇はまっすぐに彼を見返してきた。怒ったような、嬉しそうな顔をして、甘えた声で怨じてみせる。

 

「今はダメ。我慢してください」

「んふふっ、いじわるだなぁ……」

「意地悪じゃありません」

「今夜までなら我慢してあげなくもないよ?」

「……もう、困ったあおさん」

 

佐脇は唇をあつく燃えあがらせて、にっかり青江という男の愛を味わい尽くす。深緑の艶やかな髪を撫でながら、ただ、男の呼気に耳を傾ける。それは不思議と、どこまでも深く響いているように聞こえた。

 

佐脇は子宮の底で受けとめるように、彼を強く抱きしめた。痛々しいほどの健気な行為が、青江の心を優しく撫でる。

 

佐脇はまるで、子供をあやす母親のようだった。青江は彼女の意図を充分に理解していた。ようするに、佐脇は古典的な母親を演じているのだ。

 

内心のどこかに素直な喜びが生まれたことを、青江はひっそりと認めた。これはこれで楽しめなくもない、と彼は小さく笑う。

 

しかしそれは長く続かなかった。

 

「……!」

 

青江はこちらに向かってくる気配に気づき、顔をあげた。厳しい視線を向け、すぐに片手を刀へと移動させる。

 

「あおさん、殺気はないと思います……ですから、あの」

「ああ、そうだね。でも何かあった時は、僕が君を守る」

 

青江は全身を緊張させながらそっと言った。佐脇を後ろに下がらせ、目を細める。

 

女だった。有り体に、美女の類いではない。全体的に、外見的要素によらぬ魅力で特徴づけられるタイプの女だった。

 

年の頃は三十半ば。地味な色合いだが、ところどころ、錦糸が織り込まれている婦人羽織はとてつもない高級品だった。

 

女は休憩所に入るなり、煙草をくわえた。体のあちらこちらを探り、青江に、ライターはないかと訊ねた。

 

青江はその女に覚えがあった。女は古い知り合いだった。なるべくならば会いたくない類いの知り合いだった。

 

とくに、佐脇水花の前では。

 

「あらやだ懐かしい」

 

女は微笑んだ。望めばどこまでも甘く、そして冷たくなる声だった。青江は何も答えなかった。懐からライターを取りだし、そのまま女に手渡した。

 

「ありがと。ねぇ、私のこと忘れちゃったの?」

 

女は椅子に腰をおろした。タバコに火をつけて、ゆっくりと吸い込む。切れ長の瞳をきらめかせながら、眼鏡をかけ直す。奇妙な色気をねっとりと漂わせている。

 

女はありとあらゆる年代の男、そのさまざまな願望の具現化だった。子供であれば母親として、姉として女を求めるだろう。老人であれば孫娘として、大人であればまったく男性的な欲望の対象として考えたがるような女だった。

 

「忘れたわけじゃないよ」

 

青江は言った。佐脇を案じるように一瞥して、目を伏せる。満月を溶かしたように美しい瞳が、一瞬にして乾きはてた。

 

「……僕は今任務中なんだ。私用でここにいるわけじゃない」

「護衛ってわけね。そちらの可愛らしいお嬢さんが、新しい主さまなの?」

「そういうところ。ねぇ、君は少し失礼なことをしていると思うんだけど」

「何が?」

「“僕の主”への自己紹介。それが何より先だろう?」

「……あら、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだけど」

 

女は古典的な礼節を守るかのように頭を下げた。佐脇は何も言わなかった。女として備わる当然の勘が、全ての答えを導いていた。彼女は生娘のように頬を赤らめ、青江の手をとる。視線を不安げにおよがせて、彼に救いを求めた。

 

生娘を想わせるような態度が、けして見かけどおりのものでないことを、青江は知っている。佐脇は女を警戒している。いや、怯えているのだ。

 

「私は新城です。あなたを護衛しているにっかり青江の、元主というべきかしらね。あなたのお名前は?」

「……佐脇水花です。あの、元主というのは」

「言葉どおりの意味よ。彼、むかしは私の刀だったのよ。ねぇ、にっかり?」

「……昔の話だよ」

 

青江はため息をはいた。聖母の抱擁すら振りはらう冷酷さを含ませて、答える。その声音には好意のかけらもない。佐脇は背筋をふるわせた。背中を見せている恋人は、先ほどまでとはまったくの別人になっていた。

 

佐脇は答えた求めるように、新城と名乗る女に視線を向ける。新城は楽しげに笑っていた。その意味について考えながら、佐脇はポツリと呟いた。

 

「こんな偶然があるんですね」

「私も驚いたわ。まさかこんな場所に刀を連れて出歩いてるなんて」

「……もし何かあった場合、一人で身を守れるかどうか不安で、もっとも信頼できる彼を連れてきたのです」

 

佐脇はこたえた。男たちを狂わす美貌に、わずかな陰りが生じている。いつもならば魅力的な光をたたえている両目も、半分乾いているように見えた。無理もなかった。

 

佐脇は青江と新城の関係がそういうものだったと確信しているのだから。

 

「真面目なのね」

 

新城は頷いて、口から煙をはいた。灰色のそれが雲のように揺らめいて、ひっそりと消えていく。その光景を意味もなく眺めつつ、新城は笑みを浮かべる。

 

「そこまで私が信頼できるのは夫だけだわ。ああ、あなたにとって、にっかりはそのようなものなのね」

「……自覚はしているつもりです」

「そう、なら良かった。彼ちょっと変わってるから、新しい主さんと上手くやっていけてるか心配していたのよ」

「失礼を承知で申し上げますが……あおさ……青江さんは変り者ではないと思います」

 

佐脇は厳しい声で答えた。そこにあるのは怒りだけではなかった。おそらくは佐脇自身も気づいていない、粘ついたものが含まれていた。

 

佐脇の内心にあるものを察した青江は、どうして僕は彼女を制することが出来ないのだろうと思った。と同時に気づいてしまう。少なくともこの瞬間だけは、僕のものだ。僕だけの女で、それ以外の不純物はなにもない。なんて虚しい。虚しいからこそ、愛しいのかもしれない。

 

「何笑っているのよ、にっかり」

 

男の血圧を調整することに慣れた女だけに可能な発音で、新城は訊ねた。青江は視線を彼女に向けた。

 

「そんなつもりはないんだけどねぇ」

「ま、愛想のないこと。ちょっとは話にのってくれてもいいじゃない」

「何か用があるわけでもないんだろう?なら別にいいじゃないか」

「……少しあったんだけど、まぁ、今度でいいでしょう」

 

新城は言った。口元にはちょっとした諧謔を含んだ微笑がある。その意味について頭を巡らせながら、青江は軽く咳払いをした。それを見た新城は、まるで新手の芸人を見ているかのように、ころころと声をあげて笑った。そしてすぐに立ちあがり、ほんの一瞬だけ、素直な笑みをつくってみせた。

 

「……あなたちょっと変わったわね」

「僕は刀だよ。主が変われば、そうなるさ。いつまでも君色の刀というわけにもいかないからね」

「あら、冷たいわね」

「そうかな。僕は元々、こういう刀だよ」

 

青江は断定というよりは命令に近い響きのある声で答えた。実際、そういう意味を含めているのだろう。新城は表情をかくすように紫煙を吐き出して、携帯灰皿でタバコをすりつぶした。

 

正直、彼女は驚いていた。にっかり青江という男(刀)が、年端もいかぬ乙女に対して、幻想のような愛情を抱いているのはまったく予想外だった。

 

(そういうこと)

 

新城は声を出さずに呟いた。そう、そういうことなの。にっかりのことは何もかも分かってるつもりだったけど。案外知らなかったところもあったのね。といっても、なにをしていてもどこまで本気か分からなかった。ただそれだけで生きてるわけじゃなかったのね。彼女(佐脇)が羨ましい。いいえ、妬ましいわ。

 

「お邪魔してごめんなさい。雨もあがったことだし、そろそろ帰るわ」

 

新城は小ぶりな頭をわずかにうつむかせて苦笑した。佐脇に訊ねる。

 

「あなたのことは何て呼べばいいかしら?」

「……何でも構いませんよ」

「そう。なら佐脇ちゃんでいいかしら?」

「……どうぞ」

「佐脇ちゃんに一つだけ訊いておきたいことがあるの」

「何でしょう」

 

佐脇は複雑な表情を浮かべている。すると新城は、まるで子供を嗜めるかのように優しく微笑んでみせた。妖艶とした顔を上気させ、ゆっくりと屈み、佐脇に耳打ちする。

 

青江はそれを見て眉をしかめた。彼の距離からでは、新城が何を言っているのかまるで分からない。その謎めいた言の葉が、さながら幽霊のように呼吸しているように感じられた。

 

「そろそろ帰らないと、薬研に叱れちゃうわ。ほったらかしてこっちに来ちゃったのよねぇ」

「あの……」

 

佐脇はそこまで言いかけて黙った。まったくの女である新城の姿は、佐脇の脳を麻痺させるだけの力があった。

 

「それじゃあまた今度」

 

新城は短く言い、青江へちらりと微笑むと、休憩所をでていった。その姿が幻のように、まぶしく揺らめいて見えた。

 

雨はもう上がっていた。茜空が艶かしくかがやいて、世界の彩りを変えていく。汚れなき雲は天女の羽衣のように、空のなかでまどろんでいる。

 

「ずいぶんとお優しい方でしたね」

 

佐脇は青江へ感想を述べた。

 

「私が思っていたイメージとはまるで違いました」

「……そうかな」

 

得たいの知れないものに侵されたような声で、青江は応えた。奇妙なほど悲しい気持ちが、泉のように沸いてくる。その苦しみをすべて無視して、彼は佐脇を見つめた。

 

いま、ほんの少し離れた場所で青ざめて固くなっている佐脇は、ただそこにいるだけで何かをかきたてる。しかし手をだせそうになかった。絞らずとも、甘やかな蜜が滴り落ちそうなほど女の香りを漂わせる佐脇へ、どう説明するべきか分からなかった。

 

「何をを言われたんだい?」

「……え?」

「最後に耳打ちされただろう?彼女、何て言ってたの?」

「……それは」

 

佐脇の相貌にちらりと不思議なものが浮かび上がった。男には決して理解できない女の、いや、女よりもさらに複雑な乙女の、自分自身にすら説明がつかないだろう気分のあらわれだった。

 

「あおさんは、もしかして新城さんが嫌いなのですか?」

「どうしたの急に」

「……答えてくれないのね」

「彼女にいい思い出はないよ。ねぇ、これじゃわかりにくい?」

「答えになってないわ」

 

佐脇は青江を見た。愛しい女の瞳が、うっすらと濡れていることに青江は気づいた。

 

「新城さん、あおさんと同じタバコを吸っていたわ。とてもお気にいりなのね」

 

佐脇はどこか哀しみを含んだ声で、囁くように呟いた。

​●過去とまぐわう 4

雨の戯れ、そのざわめきが夜を満たした。雨雲は暗闇のなかで痙攣し、ひっそりと揺らめいている。それは憂鬱な雨の旋律。壊れかけた楽器が奏でる音楽のように、はるか彼方の、深みより聞こえてくる。

 

今宵も雨は降り止まない。

 

「………いやな天気」

 

乙女、佐脇水花はため息をついた。寝苦しい梅雨の夜、書斎に設けた長椅子に座り込んで、とろとろとまどろんでいる。書斎には誰もいない。付いてこようとした青江を邪険に追い払い、扉を閉めた。彼は寂しげな声を漏らしていた。

 

書斎はとはいえ、山のように本があるという他は名ばかりで、実質的な居室となっている。ゆるやかなネグリジェに着替え、意味もなく惰眠を貪っている。けれど甘やかな夢に溺れることは出来ず、いくらかまどろむだけ。そのまどろみは、すぐに破られてしまう。

 

扉が叩かれ、青江が入ってきたからだ。

 

「入ってきて良いなんて、言ってません」

 

佐脇はまったく不機嫌な声で応じた。青江は苦笑してみせる。それから普段通り部屋を見回して、何か言いたそうに見つめてきた。

 

熱っぽい視線を全身に感じながらも、佐脇は答えようとしなかった。ふっくらとした唇を噛みしめて、目を伏せてしまう。その意味について考えを巡らせながら、青江は柳眉を下げた。叱られに来た子供のような顔をして、彼女の傍らに寄り添う。

 

深い海の底にひとつだけ沈んだ黒い石のような、重い沈黙が書斎を包む。その冷ややかな空気をたっぷりと吸い込んで、ため息をもらす。

 

「ねぇ、どうしたの?」

「……匂うわ」

「何が?」

「煙草の匂い。私、すごく苦手なの」

「……今日は吸ってないよ。気のせいじゃないか」

「そうかしら」

 

佐脇はそれきり黙りこんだ。するとまた新しく重い沈黙が書斎を支配する。どこか、夢のように遠い場所から雨音だけが響いている。その美しさに酔いしれる余裕なんてなく、青江はおとなしく答えた。

 

「今朝、一本だけ吸ったねぇ……」

「そう、だからそんなに匂うのね」

「すぐに体を洗ったさ」

「煙草の匂いって、残るのよ」

「……それは気づかなかったねぇ。気をつけるよ」

「もう吸わないで」

「分かった、もう吸わないよ。ねぇ、どうしたんだい?」

「…………」

 

青江の言葉に佐脇は無言のままだった。ほっそりとした眉が痙攣している。お気にいりのぬいぐるみを強く抱きしめて、顔を青ざめさせた。凍えるように華奢な体を震わせながら、青江を見据えている。

 

その時になってようやく気づいた。佐脇の目は涙でいっぱいになっていたのだ。

 

「……やっぱり好きなのね」

 

佐脇がポツリと呟いた。泡が消えるときのような儚い声だった。語尾が震えている。青江は表情を変えず、唇をしっとりと湿らせた。しかし喉は異常なほどカラカラに渇いている。理由は分かっていた。もちろん、その全てを無視した。

 

「何のことかな?」

「私のこと、嫌いになったのね」

「だから何のことかな?分かるように教えてくれ」

「……のこと」

「……聞こえないよ」

「分かってるくせに」

「分からないよ。だからこうして訊いてるんだろう?」

「……新城さんの、新城さんのことよ!」

 

突然腰を浮かせた佐脇は叫んだ。否、それは叫びというよりも悲鳴に近い。転がり落ちた鈴のような声が、哀れというより他はない。しかし神すらすくませそうな何かがこめられている。頬を流れ落ちた涙がぽたぽたとぬいぐるみに垂れていた。

 

「新城さんが好きなんでしょう!?だから毎日同じ煙草を吸ってたんでしょう!?」

「そうじゃないよ」

「じゃあどうしてなのよ!」

 

佐脇は完全に自制を失っていた。いつもの、愛らしく可憐な乙女の面影はない。内蔵をむき出したかのような生々しい瞳と、唇。のしかかるような姿勢をとり、怒りと悲しみで顔を歪ませたいまの彼女は、狂おしい嫉妬心に身を焼く女、それ以外のなにものでもなかった。

 

佐脇の視線はただ青江にだけ据えられていた。闇よりも深い何かを宿らせた瞳には、複雑な変化が生じている。それには見覚えがあった。なんだろうと青江は思った。かつて、それと同じものを身近に味わったような気がしたのだ。すぐに思いだす。

 

これは、まごうことなき女の瞳。

 

青江は瞼を閉じた。人の身を得たばかりの頃に見た光景が脳裏を過る。新城と、そして彼女の夫。毎夜繰り返された営みが生み出したもの。泣き崩れる夫と、怒り狂う新城の罵声。

 

(その目をおやめなさい!世のすべてを見下すようなその目を!なにを思っていようとも消しなさい!それすら出来ないなら、あなたはただの不良品よ!)

 

すぐに目を開ける。佐脇の顔の痙攣が激しくなり、星くずのような大粒の涙が、下瞼からとめどなく溢れていた。

 

「ねえ」

「…………」

「ねえったら」

「…………」

「無視しないで!」

「ごめん。少しだけ君をからかっていたんだ」

 

何度か深く息を吸い込んで、青江は答えた。金色の双眸に浮かぶ色合いは複雑なものであり、尾を引くように動いていた。その繊細な揺らめきを、佐脇は恨みがましい視線で見つめていたが、やがて意地悪く言った。

 

「からかう、からかうですって?悪趣味ね。でもそれは嘘よ、嘘に決まってるわ。私が……女である私が、男である貴方の嘘に気づかないと思う?」

「…………」

「ほらやっぱり、やっぱり!だから、だからよ!こんな時でさえ本当のこと言ってくれないのね!やっぱり好きなのね、新城さんが!」

「違う」

「なにが違うのよ」

「好きでもなんでもないよ」

「うそ、うそよ!うそに決まってるわ!」

 

長椅子に腰を落として、佐脇はとうとう顔を覆って泣き始めた。ぬいぐるみは床に転がり落ちて、そのまま闇へと沈んでいくように、存在感を失う。

 

「自分を顕現してくれた人があらわれたら、どんな刀だってそっちが良くなるに決まってる!私なんか……私なんか……」

「彼女は僕を捨てた。今さら現れたところで、何も思わないよ」

「いや!言わないで!みんなうそだって知ってるんだから!」

 

佐脇は心の底から泣いていた。泣いて泣いて泣きつづけ、それこそ、飽きることを知らないかのように泣きつづける。

 

青江はぬいぐるみを拾い上げる。もう限界だと思った。それと同時に、刀剣男士という立場にあるはずの自分が、これ以上女のワガママに付き合うことに何の意味があるのかと考えていた。これでは本当にただの男だ。しかしそれを、どこかで心地よいと思っている自分がいる。始末におえなかった。

 

「謝ってどうにかなるものではなさそうだねぇ」

「……もう……もういいの」

「いいって何が?」

「……謝ってもらう必要なんてないわ。どのような刀であっても、審神者である以上受け入れることが私の……私の務め」

「へぇ……じゃあこれからは任務としてしか僕に付き合わないってことかい?」

「………………」

「どうして黙るのかな?」

「そういう意味じゃないわ。だから、あの」

「だから、あの……もういい……君ってそればっかりだよね」

「…………!」

 

佐脇は顔をあげた。それから猫のように目を大きく開いて、下唇を噛んだ。強く噛みすぎたせいで、月の出のように美しい真珠色の歯が、ほんのりと赤く染まった。その時になって、ようやく自分がなにをしていたのに気づいた。ほっそりとした手をにぎりあわせて胸におさえつけ、うつむく。そして息をするように自然な動作で、青江の胸に額をこすりつけた。

 

「任務としてしか付き合わないなんて……寂しいこと言わないでくれよ」

 

青江の声は、真新しい絹がこすれるように細く掠れていた。あらゆる飾りを脱ぎ捨てた心が、ひっそりと姿を現す。その尊さを知りながらも、佐脇は怖れるように背筋を震わせた。愛する男を信じる喜び、それは呪縛へと生まれ変わる。

 

「……どうして良いか分からない、分からないのよ」

 

ついに耐えきれなくなった佐脇は、青江の胴に腕をまわし、強く抱きしめた。胸に顔をうずめて泣き出す。

 

青江は両腕にそっと手をあてかえしただけだった。今、自分にはこの女を強く抱きしめる自由を与えられていないと思ったからだ。悲しみというよりは痛みに近い自覚だった。佐脇の柔らかみ、温もり、全身から発散される香りが、強烈な力を宿して脳天へと突き上げてくる。

 

「彼女に何か言われたんだろう?」

「……何も、何も言われてないわ」

「正直に言っておくれ」

「……去り際に、あおさんのこと、言われたの」

「何て?」

「…………」

「ねぇ、黙らないでくれよ」

「……ダメよ、言えない、言えないわ」

「水花……」

「いやよ、言いたくない!」

 

佐脇は押しのけるように青江を突き放すと、クルリと背中を向けた。華奢な背中が恐怖によって縮み上がっている。それこそ、両手をいっぱい広げれば届いてしまいそうなほどに。

 

「言いたくないの、だからもう、お願い、やめて……」

 

佐脇は涙声で告げた。ポロポロと大粒の涙を滴り落としながら、苦しげに声を震わせつづける。やがてしゃくりあげ、涙がとまらなくなった。永遠に感じるほどの長い時間、立ち尽くし、うつむく。

 

先程よりも深く顔を伏せたせいで、艶やかな髪がサラサラと両肩に流れ、抜けるように白い首筋を見せつけてきた。青ざめてはいるものの、しっとりと湿っており、唇を押し付ければ吸い付いてくるだろう。

 

 

一瞬、訳の分からない衝動がこみあげそうになった。かつてその衝動に抗うことなく、新城という女へ、思うままにぶつけたことが意識の大きな部分を占めた。その行為について、彼は一度たりとも佐脇に教えたことはなかった。もちろん、これからもそのつもりだった。

 

佐脇水花は自分が求めているすべてを有しているからだ。彼女を失うことへの怖れ、そのあまりの強さ故にもたらされる絶対的な何かが、得たいの知れない化物となって、襲いかかってくる感覚。それを強く感じているからこそ、絶対に教えるつもりはなかった。しかしだからこそ、気づいてしまった。

 

佐脇はもう知っている。

 

「……君には知られたくなかった」

 

青江は言った。まるで罪を暴かれた罪人のような顔をして、天井を見上げる。何かが崩れ、何かが消えていく。その全ての元凶は自分であることは分かっている。しかしそれでも……否、だからこそ……ああ、もう何もかもが遅いのだ。

 

「どうして、どうして教えてくれなかったの?」

 

佐脇は悲しげだった。闇に沈んだような瞳で、青江を見つめる。

 

「知らない方が幸せなこともあるから」

「……教えて欲しかったわ」

「それは審神者として?それとも恋人として?」

「……私が女だからよ」

 

佐脇はゆっくりと頷いてみせた。それから、わずかに舌先で唇を湿らせ、そっとつけくわえた。

 

「だからこれは、私のワガママなの。ええ、分かっているの、分かっているわ……。それでも全てを知っていたかったの」

 

佐脇は右手の人差し指で唇をゆっくりと撫でながら笑う。相貌にちらりと不思議なものがのぞいていた。やさしげでありながら、どこか粘つくような部分もあった。彼女の内部へしっかりと根付いている純粋、純真という少女的要素だけでは説明できない顔だった。

 

青江は吸い込まれるように見つめ、やがて押し出すように告げた。

 

「……知ってどうするんだ。僕が望むすべてを、君は受け入れるとでも言うのかい?」

「それはあおさんが考えることだわ……」

「……どういう意味かな?」

「怖い顔しないで……私、あおさんが好きなのよ……」

「僕も君が好きだよ」

「そう、良かった……」

 

佐脇は微笑んだ。不気味なほど動物的で艶かしい笑みだった。それは青江の知らない、佐脇水花という女の顔だった。

 

「……水花?」

 

青江はきめ細かい肌にわずかな緊張の色をうかべつつ言った。正直、何をどう考えて良いのか分からなくなる。分からない、分からないのだ。佐脇は優しかった。不良品と捨てられ、初めて会ったその時から。不完全な刀である自分を受け入れ、求め、愛してくれた。

 

優しくて可憐な乙女。一途で健気な少女。少しだけ独占欲の強い女。それが佐脇水花だった。にっかり青江にとっての佐脇水花だった。彼がそうあれと欲した佐脇水花だった。

 

しかし彼女は、彼が思っていた以上に女だった。

 

「……好きよ、あおさん」

 

佐脇は艶やかに笑って、上目遣いに青江の顔を盗み見る。そして唇を半開きにしたまま、心の内にあるものを証す。彼女は彼の手を、ゆっくりと己の首筋へいざなった。ほっそりとした喉首に彼の手をまわして、自分の手を重ね合わせる。まるで逃さないように指を絡ませながら、ただ、男の瞳だけをつめた。

 

「……女の首を絞めるのが好きなんでしょう?だから、ね?」

「……そうじゃないんだよ、水花」

「……どうしたの?今までずっと我慢してたんでしょう?だから、ほら、ね?」

「大丈夫、大丈夫なんだよ。君にはそんなこと、しなくても大丈夫なんだ」

「だって、だって新城さんが……」

「水花……!」

 

青江の頭が割れそうに痛んだ。心臓が破裂しそうなほど脈打つ。麻薬のようなものが脳内から溢れ出す。再び、訳の分からない衝動が一気に駆け抜けた。彼は反射的に行動を起こしていた。佐脇の手を振り払い、意図的に身体をはなした。

 

「……あおさん」

 

佐脇の瞳に生気が失せる。それから道に迷った子供のような顔をして、肩を落とす。ほんの一瞬、熟れた果実のような唇がひきつり、すぐにもとの愛くるしいカープを取り戻した。悲しみと喜びが絡み合って、ゆっくりと溶けていく。その快楽の意味について考えながら、彼女は小首を傾げた。

 

「どうして?」

「水花、お願いだから話を聞いて。僕はね……」

「……聞きたくないわ」

「水花……」

「聞きたくない!どうせ嘘を言うに決まってるわ!」

 

佐脇は飛び上がるほどの勢いで近づき、青江の頬を激しく平手で打った。

 

「あおさんも、新城さんも、みんなみんな嘘つきっ……!だから、だからあおさんを信じてあげたくても、それが出来なくて、でも、でも私っ……分かっているわ、悪いのは私なのよ、でもっ……」

「水花は何も、何も悪くないんだ」

 

青江は言った。声こそ落ち着いているが、顔は、途方に暮れた子供そのものだった。

 

佐脇はハッと、何かに突かれたような顔をしてみせ、赤く腫れ上がった頬を指先でなぞり、そのあとで慌てて、音が響くほどの激しさで打った。

 

「あなたはいつも、いつもそうやって誤魔化して、見栄を張って……!本当は、本当はなにもかも恐くてたまらないくせに!卑怯だわ!本当のことを言いなさいよ!」

「…………」

「嫌い……あおさんなんか嫌い、大嫌い……!」

 

青江は何も答えられなかった。佐脇であれば何を言われても許せた。例えどれほど生々しい女であったとしても、どれほど愚かな女であったとしても、佐脇水花は、彼がこの世で愛情の対象としているただ一人の存在だからだ。

 

「……出てって」

「それは出来ない相談だねぇ……」

「だから、だからどうしてあおさんはっ……!」

 

腹に据えかね、佐脇はまたも青江を打った。丸みを帯びた爪が頬にあたり、小さな傷口から血が溢れだす。ぽたぽたと音をたてて垂れる血を見つめながら、佐脇は呟いた。

 

「いっそ、壊してしまいたいわ……」

「……構わないよ、僕は君の刀だからねぇ。どう扱われても、甘んじて受け入れるのが刀剣男士さ」

「……もう、もうあおさんが分からないわ……」

 

佐脇は悲鳴をあげた。そのか弱い……痛々しい、幽霊じみた、限りない悲しみの叫びが、青江の心を締め付ける。

 

狂おしい愛の苦痛、その悦びに溺れてしまいたい。そのまま息絶えて、壊れてもいい。にっかり青江らしくない、そんなことはもう分かりきっている。だから、だからどうだと言うんだ。どのみち僕は、彼女から離れて生きていくことなど出来ない。ああ、最低だね、最低だ。でも、構わない。なぜってそれはもう……水花が僕を求め、失うことを怖れてくれているら。その対象が僕だけだから。そう、僕ひとりなんだ。

 

……再び扉が叩かれた。

 

青江は室内を見回して、ため息をつく。肩をすくめて応じた。

 

「……なんだい?」

 

返事はなかった。青江は意図的に口元を歪ませ、曖昧な表情を浮かべる。逢瀬を邪魔された情夫のような気分だった。整った眉をわずかに痙攣させ、ちらりと佐脇を盗み見た。

 

佐脇は、一瞬呆けた顔をしたかと思うと、その目に新たな涙が盛り上がらせていた。繊細な髪が何本か濡れた頰にからみついている。かすかな湿り気が彼女のまわりにオーラのように漂っていた。

 

その甘い色香に違和感を感じながら、青江は眉を寄せた。ふと、泉のように沸き上がる言い知れぬ不安。扉を開けてはいけないと、誰かが囁いているような気がした。これは付喪神としての直感なのか、それとも男としての直感なのか、自分でも分からなかった。であるからこそ、脳が焼けるようにあつくなる。

 

「……誰かな?」

 

やはり返事はない。青江は薄く笑う。この世のすべてを軽蔑するかのような、どこまでも無機質な笑い声だった。

 

「入ってきなよ、恥ずかしがらずにさ」

 

扉が開かれ、部屋に光が差し込んだ。そんな印象があった。青江は目を細める。陽光ではない。例えるならばそれは、月が発する濡れたような光だった。

 

平静を保つのには、努力が必要だった。

 

現れたのは面識のない、しかしいまは絶対に目にしたくない男が立っていた。最高級のスーツには皺ひとつない。背は高く、適度に鍛えられた肉体には男性的な美しさがあった。年は四十代の後半だが、見た目には三十代の頭でも通りそうな精気とたくましがあった。そして、かつては美丈夫として称賛されたであろう顔立ちには、程よい渋味が添加されている。

 

男は呆れたように言った。

 

「また泣いているのか、水花」

​●過去と溺れる 5

「……また泣いていたのか、水花」

 

男はため息をもらすように言った。彼の声には、かすかな安堵の響きがある。しかし佐脇水花を見つめるその瞳は、憐れみというより冷たい軽蔑で意地悪く光っていた。まるで洗練された強かさが、端正な顔からにじみ出ているようだった。

 

「彼女を知る君は?」

 

青江は嫌な光を瞳に宿らせ、訊ねた。大体の察しはついていた。であるからこそ、表情の変化を抑えるため、かれは全力を注がねばならなかった。

 

「人に名を尋ねるときは、まず自分から名乗るものだろう?」

 

男は画家の手で描かれたように整った眉の右側だけを持ち上げて言った。声音には叱責にちかい響きと、人を従わせることに慣れきった者だけが発音できる力があった。

 

青江は肩をすくめ、苦笑してみせる。

 

「……面白いことを言うねぇ。無断で人の家に上がり込むような輩に、教える名前なんてあるわけないだろう?」

「無断で?」

 

男は意外そうな顔をしてみせた。佐脇をぶしつけに眺めながら答える。

 

「……ああ、君は水花から何も聞かされていないのか。それは失敬。俺は水花に呼ばれて、この本丸に来た」

「笑えない冗談だねぇ」

「冗談?なら、水花に聞いてみたらどうだ?」

 

男は白々しい発音で言った。言葉こそ丁寧だが、そこには好意の欠片もない。唇と舌によって生まれる音は、どこまでも機械的だった。青江は視線を佐脇へと運んだ。

 

一瞬、目が眩むほどにまぶしく感じた。ポロポロと涙を流し続ける彼女には、ただ美しいというだけではない魅力があった。ある種の男ならば、肉体の底で受けとめるだろう性質のもの。そのとろけるように甘美な香りを、たっぷりと吸い込む。

 

「ねぇ、彼は誰だい?」

「…………っ」

 

佐脇は苦しみの喘ぎとも、悦びの吐息ともとれる声を響かせた。不思議な光が、夜の湖を照らす月光のように、彼女の瞳の中でゆらゆらと揺らめいていた。

 

「僕には言いたくないのかい?」

「…………私のお父さん。私が呼んだの……ごめんなさい、何も言わなくて……」

 

佐脇は答えた。ほっそりとした手が拳を握り、ほどき、また握った。まるで蝶のような儚い仕草に、青江は言い知れぬ不安を覚える。しっとりと濡れた瞳を煌めかせて、男を見た。

 

「そういうことだ。……ところで、君の名前は?」

 

男の口もとにはかすかな、しかしはっきりそうとわかる冷笑が刻まれていた。 青江は睨むように眉を寄せ、ため息とともに答えた。

 

「……僕はにっかり青江。元は大太刀の大脇差。今は彼女の刀剣男士」

「ああ、なるほど。つまり君が、水花のお気にいりというわけか」

「……どういう意味かな?」

「そのままの意味だよ、にっかり青江くん」

 

男、佐脇俊兼は最後の名詞を強く発音した。もちろん、明確な意思をこめてそのようにしている。青江はそれを誤解しなかった。人間から浴びせられる軽蔑の言葉には慣れていた。

 

「刀剣男士を得た者のほとんどは、それを恋人としても扱う。……話には聞いていたが、こうして見ると生々しいものだ」

「意外だねぇ。こういう時父親は、驚いたり怒ったりするものじゃないのかい?」

「あまりにも予想通りすぎて、驚きたくても驚けないんだ。……こうなることは分かりきっていたからな」

 

俊兼は素知らぬ顔で答えた。眉目秀麗というべき顔立ちの男だが、話しているうちに、奇妙な険しさが添加されていた。彼はその表情を保ちながら、佐脇へと近付く。

 

「水花に近づかないでくれ」

 

呆然としている佐脇を庇うように、青江は前へ出た。凍ったような瞳で俊兼を見つめる。俊兼の行動を予測し、その最悪の展開に備えているのだ。必要ならば刀を躊躇いもなく振るうつもりだと、態度で示している。

 

「君に斬れるのか?水花の父親である俺を」

 

俊兼は笑った。彼の言葉はどこまでも丁寧で、優しげだった。どこか悟ったような響きすらある。その意味を即座に理解した青江は、睨むように押し黙った。彼のふてぶてしさ、そして強かさにはらわたが煮えくり返った。要するに、全て見抜かれているのだ。

 

にっかり青江という刀の殺意に、かろうじて箍をはめているのは佐脇水花なのだ。

 

青江は彼女に対して、あまりにも歪んだ愛情を抱いていたが、だからこそ悲しませることを望まなかった。俊兼の命を奪うことは容易い。しかしそれは、佐脇水花を奈落の底へと突き落とすに等しい。そうなれば彼女は、二度と自分を愛してはくれないだろう。

 

俊兼はそれを分かった上で言っているのだ。

 

「賢い判断だ」

 

俊兼は微かに眉をうごめかせたあと、ゆっくりと頷いた。それからすぐに、まるで息をするように自然な動作で、佐脇のか細い腕をとった。

 

「何をするつもりだい?」

「待ってあおさん……」

 

青江は反応しかけたが、佐脇が声で抑えた。彼女の口元は、この世の誰もが憐れむだろう形に歪んでいた。しかし、かれは見逃さなかった。海の底でひっそりと輝く真珠のような彼女の美貌に、喜びの感情が添加されていることに。その意味に気づけないほど愚かではなかった。

 

「……私、一度現世に戻ろうと思って……。だから、お父さんにお迎えを頼んだの」

 

佐脇は答えた。それが猥語であるかのような物言いだった。控えめな表情をしているものの、そこには氷のような冷たさがある。否、少しだけ違うかもしれない。まるで愛し抜いた男を拒むような、捨てるような、そんな言い知れぬ冷たさ。

 

「審神者に就任してから、一度も実家に戻っていなかったから……」

「へーえ……でも、政府の許可なく現世に戻ることは禁止されているはずじゃなかったかい?」

「審神者が未成年である場合は別だ」

 

しばらく黙っていた俊兼が言った。ある程度の特権を得ているが故に、ひどく余裕めいている。

 

「労働基準法を知っているかね?未成年者は就業に関して強い規制がかけられている。水花は就任して以降、有給を取らずにいた。公休日も、君たち刀剣男士のメンテナンスをしているのだから……休みなく働かされているわけだ。これは保護者として放っておくわけにもいかない。休みを取らせるよう俺が働きかけた」

「……娘想いのお父さんなんだね」

「保護者としての義務を果たしているだけだ。未成年でなければ、俺だってここまでしようとは思わん」

「それじゃ仕方がないねぇ」

 

青江は俊兼を一瞥してから、再び佐脇を見た。彼女は何かを言おうとしているが、迷っているらしい。男の唇を受けとめるだけにあるような唇が、悩ましげに震えている。ふいに、このまま有無を言わさず口づけてしまおうかと考える。しかし、彼女が俊兼に寄り添っていることに気づくと、その気が失せた。

 

「お前は相変わらずだな、水花」

 

俊兼は言った。そこに含まれているほんのりと甘い響きに、青江は眉を潜めた。かれの意識に粘ついたものが入り込んでいる。

 

まさか、二人はそういう関係なのか。

 

水花がこの男を好いていることは知っていたけど、もしそうなら笑えない話だ。否、考えすぎだ。少なくとも水花とこの男に肉の繋りはない。水花は僕が初めてだった。それだけは絶対に、絶対に間違えない。

 

胃が音をたてて引き絞られ、胃液がこみ上げてきた。慌てて唾でのみくだす。その時になって、ようやく佐脇が口を開いた。一瞬、何かを期待してしまう。もちろん、それはあっさりと裏切られる。

 

「ごめんなさい、お父さん。お仕事していたのに、ワガママを言ってしまって」

「その自覚があるなら、さっさと直せ。相続権はもうないとはいえ、お前は佐脇家の人間であることに変わりないのだ。佐脇の名を汚すようなことを二度もするな」

「……あ、ごめんなさ……い」

「申し訳ありません、だ」

「申し訳ありません、お父さん」

「それでいい」

 

俊兼はゆっくりと頷いた。その口元は満足げに歪んでいる。まるで子ウサギをいたぶる子供のような顔だった。否、可愛がっているつもりなのかもしれない。

 

佐脇水花は男の加虐心をくすぐってしまうような女であることを、青江は熟知していた。いたぶるようにじっくりと可愛がれば可愛がるほど、彼女は淫らに花開く。しかしどれほど貪り尽くし、これ以上ないほど欲望を注ぎ込んでも、その花はけして汚れない。深い海の底で、殆ど忘れられてまどろむ水中花のように、儚くも美しい乙女のままなのだ。

 

その甘やかな魔性を愉しむように弄ぶ、おそらく俊兼はそんな類いの男なのだ。怖気立つほどに悪趣味極まりない。しかしそれを、どこかで理解してしまう自分がいることも事実。これではまるでただの男ではないかと、青江は奇妙なむかつきを覚えていた。

 

「……あおさん」

 

鈴を転がすような声を響かせて、佐脇は青江を呼んだ。微かに声が震えている。まるで生娘のようだとかれは思った。一瞬だけ唇を噛んで、小さな声で応じる。

 

「なんだい?」

「……怖い顔しないで」

「そんなつもりはないんだけどなぁ」

「また嘘をつくのね」

「んふっ、君も怖い顔してるね。そんな顔初めて見た」

「嫌な言い方だわ」

「君もね」

「…………」

 

佐脇は黙った。心に痛手をうけた子供のような顔をして、慰めるすべもなく青江を睨み付けている。甘がなしい怒気を含ませ、ぷい、と顔を背ける。それを見た青江は唇の端をつり上げた。腰に置かれていた手が拳を握り、青い筋が浮き上がる。

 

「僕とは口も聞きたくないってことかい?」

「…………」

「君って、最後何も言わなくなっちゃうよね」

「…………」

「あぁ……はいはい、もういいよ。邪魔者は立ち去るとしようか」

 

おどけた口調で佐脇の肩を叩きながら、青江はもう一方の手で頬に張り付いた髪をなおす。かれの表情は相変わらずだった。しかし声に、奇妙な力がこもっているのが佐脇には分かった。

 

(どうして)

 

佐脇は声をださずに呟いた。どうして、どうしてなの。何もかも分かっているくせに、どうして分からないふりをして誤魔化すの。お願いだから、もう誤魔化さないで。ちゃんと私を見て、あおさん。あなたは、あなだけは、あなだけが、私のーー。

 

「……何?」

 

青江が訊ねた。氷のようにどこまでも冷酷な、恋人の愛撫さえはねのけるような態度だった。佐脇は目を見開いて、全身を震わせる。愛くるしい美貌をひきつらせ、息も絶え絶えに苦しみ喘ぐ。冷たい海で溺れる子ウサギのように哀れなものを心に宿して、青江を求める。

 

しかし彼はその全てを拒んだ。

 

「言いたいことがあるなら、恥ずかしがらずに言ったらどうだい?」

「…………どうして、そんな酷いことを」

「酷いって何が?」

「私が、私が嫌いなのね」

「どうしてそうなるかなぁ。今そんな話してないだろ」

「だ、だって」

「また、だって?いい加減聞き飽きたよ、それ」

「…………っ!」

 

青江は暖かみのない微笑を浮かべつつ、佐脇を見つめる。彼女の顔面は哀れなほど蒼白になっていた。もちろん何もしてやらなかった。内心の暗く歪んだ想いを胸に封じこめるように、視線を逸らす。まるで畜生道に堕ちた悪人のような気分だった。同時に、いっそそうなってしまえばどれほど幸せかと思っている。

 

例えば彼女をこのままどこかへ連れ去り、有無を言わさず神隠ししてしまう。そんな愚かな妄想に浸ってみる。すぐに途方もない虚無感が襲い掛かってきた。自分も堕ちたものだと、思わず苦笑した。

 

「話はもう終わったのかね?」

 

俊兼が言った。嫌味臭さまで感じさせる紳士的な態度で、やわらかに微笑んでみせた。もちろん、彼は分かっていて訊ねているのだった。青江は自分の髪を撫でつつ、目を細めた。満月を溶かしたように煌めく瞳に、わずかな陰りが生じる。

 

「見て分からないかい?」

「まるで痴話喧嘩を見ているような気分だったよ」

「さあ、どうかな」

「君、ひどい顔をしているな」

「そうかな」

「鏡を見てくるといい。時には自分を見つめ直すことも必要だ」

「それって君も当てはまるかい?」

 

俊兼は馬鹿のような笑みを浮かべ、佐脇の頭を撫でた。彼女は一切の抵抗を示さず、素直に受け入れている。その光景を意味もなく観察しながら、青江は渇いた声を漏らす。

 

「…………もう帰って良いかい?」

「君の主は俺じゃないだろ。水花に訊いたらどうだ?」

「水花ちゃんは僕と話したくないんじゃないかな」

「さあ?俺は水花じゃないから分からないな」

「あぁ……何なんだろうね、これは」

 

青江は瞼を揉んだ。ただ腐り果てるよりない死骸でも見ているような目付きで、俊兼を睨む。その無情さが佐脇を脅えさせ、苦しめる。そんなこと分かりきっているのに抑制することが出来ない。この世でもっとも愛しくてならない女なのに、どうして。分からない、分からない。どうしてこんなことをしてしまうのか、その原因さえ分からない。

 

「……本当に」

 

佐脇は呟いた。狂おしい愛を噛み砕くように唇を噛みしめ、青江を見つめる。彼女の瞳は、美しくも醜い矛盾を孕んで光輝いていた。その光は彼の心を世話しなくかき回す。そこからこぼれ落ちるのは、悲しみ、怒り、嫉妬、それら全てを混ぜ合わせた雫。甘やかに淀んだ感情の一欠片。

 

「本当に行ってしまうつもりなの、あおさん」

「……女のワガママに付き合うのは嫌いじゃない。でも今はそういう気分になれなくてね」

「私の傍にいてくれたのは……ずっといてくれたのは……全部あおさんの気分だったの?」

「……主として命じてくれるなら、いてあげなくもないよ?僕は君の刀だからねぇ……」

「さっきは……さっきはそんなこと言わなかったじゃない」

「そうだったかな?」

 

冷水をいきなり浴びせられたように、一瞬、佐脇の呼吸が止まる。半開きの唇は、呼吸困難を起こしたかのように、ぷるぷると震えていた。悲鳴すら出ない。

 

「命じてくれるの、くれないの?」

 

青江がとどめを刺すように言った。泣いているせいで心臓が興奮しやすくなった佐脇の呼吸は、霰あられのようにせわしなく乱れ、狂い始める。

 

しかしそれでも彼女は美しかった。乱れてもなお美しかった。いや、乱れているからこそ美しいのかもしれない。まるで、飛翔する美しい蝶になるために脱皮する虫のように、弱々しくも美しい。青江は声を漏らしそうなほどの驚きを覚えた。この美しさの源は何だろうかと、考える。まったく、こんな時にどうして僕は人間じみた考えを弄んでいるんだろう。本当に分からないな、こればかりは。

 

「……そうよね」

 

佐脇はうつむいた。それと共に、艶やかな黒髪がはらはらと首筋に流れる。息をしているようにすら見えてしまうのは気が昂っているせいか、それとも別の理由があるのか、青江には分からなかった。

 

この愛くるしい生物の、刹那的ともいえる感情の変化に、意識を研ぎ澄ます。ふと、潮騒を思わせる寂しい音が聞こえた。そっと耳をすませてみる。佐脇の呼吸だった。あまりにもか細く頼りない生物の戦慄。その危うさにようやく気づいたかれは、ありとあらゆる見栄を放り投げるように、彼女の両肩を掴んだ。

 

「ねぇ、どうしたんだい?」

 

佐脇の意識を呼び戻すように、力を込めて語りかける。しかし彼女は、まるで何も聞こえていないかのように、うわ言を口にする。

 

「そうよね……そうよね……あおさんは刀で、私はあなたの主で……それ以上の関係はすべて付属品みたいなもので……あおさんがどんな刀だったかなんて関係なくて……じゃあ私は、私は……?そう、そうよね……あおさんが戦に勝つようにメンテナンスをする……道具のようなもので……だから、私は……」

 

佐脇の呼吸が荒く、そして速くなった。彼女のなかに埋没する何かが崩れ、壊れる。その間にも時はたゆみなく流れ、彼らの理を変えていく。幾重にも積み重ねた彼らの想い。それによって生まれたもの、失ったもの、その何もかもがゆるやかに、しかし確実に変化していく。

 

それは一瞬の出来事だった。

 

「……私はっ、私は……わたしっ、でもっ……」

 

佐脇は崩れるように床に座り込んだ。岩に打ち上げられた哀れな魚のように、唇がパクパクと動いている。その間にも呼吸は浅く、そしてさらに速くなった。全身が細かく震え始めると、鼓動が大きく脈を打った。時の流れがいったん止まる。まわりの空気が希薄になり、世界が暗く閉ざされていく。青江が気づいたときには、何もかもが手遅れだった。

 

「水花……!?」

 

佐脇は何も答えなかった。ヒューヒューという奇妙な呼吸音だけが、虚しく聞こえるだけ。青江は直感した。すぐに支えてやらなければ彼女は壊れてしまう。もう一度両肩をつかんで、しっかりと自分の腕に抱こうとする。が、それは出来なかった。

 

「過呼吸だな」

 

青江は顔を上げる。俊兼だった。ゆっくりとしゃがみこんで、様子を伺っている。といっても彼の表情は相変わらずで、驚いた様子もない。まるで自然現象でも眺めているかのように、その表情には感情というものがない。

 

青江はそれに疑問を抱きながら、訊ねた。

 

「過呼吸……?」

「精神的な不安から呼吸が浅く速くなって、息苦しくなる発作のようなものだ。死ぬほど苦しいのに死ねないと、水花はよく言っているな」

「どういうことかな?」

「ああ、君は初めてだったか。心配するな、いつもの事だ」

 

過呼吸によって苦しみ続ける佐脇を、俊兼はしっかりとその腕に抱いた。酸素を求め、悲鳴のような呻きを漏らす我が子を優しく抱き上げ、胸にあててやる。

 

「まったくお前という奴は……。水花、水花聞こえるか?」

「お……とっ……おとうさ……」

「喋らなくて良い。俺と呼吸をあわせろ。分かるか、水花」

「……う、んっ…………」

「ゆっくりでいい……ゆっくり吸って……はいて……吸って……」

「すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……おっ……うさんっ……お、とうさんっ……おとうさんっ、おとうさんっ!」

 

佐脇水花は父親の胸へ赤ん坊のように顔をこすりつけながら、過呼吸の衝動に泣きわめいた。今の彼女は愛くるしい乙女でも、魔性の女でもなかった。どこまでもか弱い子供、それ以外の何者でもなかった。父親の胸に顔を埋めて、何もかも忘れ果てたように泣き続けている。

 

青江は膝立ちのまま、その狂態じみた光景を眺めていた。ある意味、全く動揺している。ほんの一瞬で、佐脇水花はまったく別のなにかに変わっていた。気づかないうちに、見えない場所ですべてが組み替えられてしまったかのような変化だった。

 

「君、紙袋を持ってきてくれ」

 

俊兼が青江を見た。どこまでも静かな声だが、そこには諭すような冷静さと、脅すような力強さがいりまじっている。

 

「主を守るのが君の務めだろう?その役目すら果たせないなら、君はもう刀剣男士ですらなくなる。本当にただの不良品に成り下がるつもりか、にっかり青江」

「…………!」

 

青江は絶句した。異様さを覚えるほどきっぱりとした威圧感。主ですらない……言ってしまえば俊兼は、ただの人間でしかない。でありながら、彼は堂々と審神者の権力をカサに着た態度を示してきた。まるでそれが当たり前であるかのように。しかも正論を口にしているのだから、始末におえない。

 

諦めたかれは、思ったままのことを口にした。

 

「人を従わせることに慣れているんだねぇ」

「褒め言葉にしては生々しいな」

「そういうつもりじゃないよ」

「それならば分かるだろう?君はやるべきことをやれ。話はそれからだ」

「話?」

 

青江が怪訝な声で訊き返すと、俊兼はそれを予期していたのか、声に微笑が絡からんだ。

 

「君も一緒に来い。水花をここまで追い込める男が俺以外にいたとは、正直驚いたよ。君と話がしてみたくなった」

​●過去と交わる 6

雨が降り続いていた。雨音は女がすすり泣くように、細かな息を吸い込みながら、絶え間なく響きわたる。暗い光を灯す夜、その悲しみを残りなく味わい尽くそうと、耳をすませた。どこか夢のように遠い場所から、誰かの声が聞こえる。そんな気がしてならず、青江は眉を潜めた。この調子ではきっと、明日も雨だろう。確信はないが。

 

「雨が好きなのかね」

 

俊兼はため息をもらすように言った。詰物のたっぷりほどこされたソファーに身を沈め、ゆっくりと足を組む。まるで文化祭の演し物でも見ているような表情だった。面白げに笑いながら、ただ、青江だけを見ている。その瞳に宿るのは、子供のような好奇心だった。

 

「そんな話がしたくて僕を呼んだのかい?」

 

青江は答えた。距離を感じさせる冷えた声だった。ふと、意味もなく部屋を見渡してみる。

 

豪華な彩飾が施された応接室の中央には、マントルピース(造り付けのガス暖炉)が配置されている。飾り棚上の壁面には、芸術品と称するより他はない洋画が組み込まれている。金持ちの道楽ゆえ、と言うべきか、かなり手が込んでいた。

 

「そう警戒するな。同じ女に関わる男同士、仲良くしようじゃないか」

「へぇ……やっぱり水花をそんな目で見ていたのか」

「おいおい勘違いするな。俺はそこまで堕ちていない。もっと精神的な話だよ」

「勘違いしているのは、君の方かもしれないよ?僕はにっかり青江という刀で、男ではない。男の体を得ているだけの付喪神だ」

「君は間違えなく、男だ」

 

俊兼は最後の名詞を強く発音して、断定した。彼の言葉に含まれたものを理解した青江は、目を丸くした。月光を思わせる妖しげな瞳を煌めかせて、笑う。

 

「おかしなことを言うねぇ。どうして君にそんなことが分かるんだい?審神者ってわけでもないのに」

「君だってもう分かっているんだろう?」

「いまいち分からないかなぁ。僕は人間じゃないからさ」

「俺が水花を抱いたとき、君はどう思った?“もしかして体の繋がりがあるのでは”……なんて考えなかったかね?」

「それ父親が言う台詞かなぁ」

「どうなんだ?」

 

青江は答えなかった。こもるともなき雨の音が、応接室にこもっている。その音に耳を傾けながら、髪をゆっくりと撫でた。柔らかな感触を楽しみながら、窓を見る。

 

「君が主であれば答えてあげなくもないけど。そうじゃないからねぇ」

 

一瞬の沈黙。それは形を持たぬまま、冷ややに漂う。しかしその沈黙は雄弁でもあった。この奇妙とも言うべき刀剣男士が何を思っているかは、考えるまでもない。俊兼は目を細めた。まったく信じていない調子で、眉をあげてみせた。

 

「刀剣男士というのは、ある面でえらく融通がきかないという噂は耳にしていたが、本当だったか」

「へぇ……僕ら刀剣男士は、外でそんな風に言われているんだねぇ」

「噂が真実であると確認出来たよ。ちょっとした収穫というべきかな」

「それは良かったねぇ。ところで、水花ちゃんは今どこにいるの?」

 

青江は言った。口調はひどくぞんざいだった。君になんて興味ないんだよ、という気持ちを強調している。実際はそれ以上の意味もあるが、わざわざ口に出して主張するほど愚かでもなかった。かれはそのまま話を続けた。

 

「こんな大きい屋敷だと、どこにでも隠せてしまうよねぇ」

「水花なら自室で眠っている」

「そう、なら案内してくれないか」

「話が終わってからな」

「話ならもう終わっただろう?」

「噂通り、君はかなりの変わり者だな」

 

俊兼は馬鹿のような笑みを浮かべた。しかしその双眸は父親の情に溢れたそれの対極になる。まるで品物でも見定めるような、そんな冷たい眼差し。特権階級であるが故に、自然と身につけたものだろう。であるからこそ、ひどく慣れきっているように見えた。

 

「僕は不良品として一度捨てられているんだよ?そりゃ他のにっかり青江とは、ちょっと趣が違うかもねぇ」

「不貞を働いた元主と、その相手をしていたのが君だろう?」

「……調べたのかい?」

「秘密主義で知られる審神者どもから情報を集めるのは、骨が折れたよ」

 

俊兼は大げさに手を振ってみせた。この世の全てを見透かすような視線を青江に向けつづけながら、立ち上がった。それから余裕ありげに、ゆったりと歩き回る。 後ろ手に組んだ指が、芋虫のようにせわしなく動いていた。

 

雨音がゆっくりと、しかし確実に強くなる。そのゆるやかな変化を体で感じながら、青江は痙攣のような微笑を浮かべた。

 

「そうだと知りながら、僕を此処に連れて来たのかい?」

「だから言っただろう?“同じ女に関わる男同士”仲良くしようと」

「脅しているつもりなら悪いんだけど、水花ちゃんはもう知っているよ」

「別に脅しているつもりはない。少し、親近感を抱いただけだ。君は女と深い関わりがある、そんな風に思えてね」

「それって、僕に関わる逸話の事かい?」

 

青江は整った眉をかすかに動かして、ため息をついた。窓が白く曇る。ささやかな自然現象を意味もなく見つめてから、唇を舐めた。溶けるような美貌には、奇妙な陰りがあった。俊兼は相変わらずの表情で、話を続けた。

 

「にっかりと笑う女の霊と、その子供を石灯籠ごと斬り捨てた。『享保名物帳』の中で語られた最も有名な逸話だ。他にもにっかり青江の由来となるエピソードはいくつか伝えられている。いずれも“にっかりと笑う女”が登場する点は、共通している」

 

にっかり青江、と青江は言い捨てるように、小さく呟いた。そう、それが僕の逸話。子供を抱いて、にっかりと笑う美しい女。抑揚のない声で、けれどほのかな甘みを含ませて、男を求め、惑わそうとした女。子供を斬り捨てられても尚、にっかりと笑いながら男を誘った女。生々しくて、強かで、しかしどこまでも逞しい女。死してもなおも輝く、醜くも美しい生命力。その不思議さに、僕は心惹かれたのだ。だから、だからこそ僕はーー。

 

「……女を抱いたのは好奇心からだよ」

 

青江は答えた。感情の含まれない、その内容どおりの言葉だった。しっとりと湿り気を帯びた声が、冷ややかに響き渡る。かれの内部に埋没する過去の塊。そこから滲み出るものの価値について考えながら、目を伏せた。

 

「誘ったのは彼女の方からだった。淡白な夫の気を引く道具として、僕を利用したのさ。僕も僕で女に興味があったから……まぁ、利害は一致していたね」

「そして嫉妬に狂った夫が妻に暴力を振るう、か。それで、君はどうなった?」

「僕は主だった彼女を守ろうとしただけだよ。でも彼女は夫を庇った。そりゃそうだよねぇ……」

 

青江は乾いた声で笑った。まるで眠ねむりに入るとでもいうように、目を閉じる。あの頃の--刀剣男士として顕現したばかりの自分は、それほど悪い刀ではなかったはずだ。

 

戦になれば冷たい飯を食べて、驟雨のもと、泥の中で眠ることも苦にならなかった。女と関係を持ったあの夜までは、それなりの刀であったはずだ。肉体の契り、その果てに得られる到達感と落下感。それによって生まれた奇妙な違和感、不一致、食い違い、その類いの何かが刃を曇らせ、鈍らせた。

 

あの夜、女は泣いていた。背中を丸めて、自らの体を抱き抱えるように震えながら、すすり泣いていた。彼女の声が念仏のように、脳内で反響する。

 

(にっかり、にっかり、怖いの、怖いのよ。きっとあなたもすぐに分かる。私は謎めいている風に見せるのがうまいだけの、空っぽな女。だからすぐに飽きられる。夫はもう分かっているの。無関心なんて嫌。忘れられるのは嫌。ねえ、私はどうしたらいいの。分からない、分からないの)

 

青江は目を開けた。耳の中にまで雨水が流れ込んで気がするほど、雨の音は大きくなっていた。まるで人間の断末魔のようだと、場違いな感傷に浸る。

 

突然、笑い出したくなった。今の今まで飽きることなく命を奪い続けてきた自分が、こんなときに人間のような感情を弄んでいることに、とてつもないおかしみを覚えたのだ。いっそ壊れたように笑ってしまうかと、口元がひきつりなりそうになる。しかし、かれの意識はどこまでも冷静だった。息をするように自然な動作で、それを押さえる。

 

「それで君、何を思ったんだね?」

「どうも思わないよ。彼女は夫に愛されたくて、僕を利用していただけなんだからさ」

「女に興味があったんだろ?」

「受肉したのだから、ある程度は経験しておきたいと思っただけだよ。それ以外は別に」

「……人間が“性”を意識した時、どうなるか知っているか?」

「さあ?刀に分かるはずもないだろう?」

「嫌悪し、拒み、そして急激な変化に困惑し、混乱して、暴走する」

 

俊兼は上体をまっすぐにして昂然と歩きだした。壁には、先祖代々より伝わる名刀が飾られている。彼はそれを手にした。古い刀特有のずっしりとした重みを楽しみながら、ゆっくりと抜いた。月光のようにきらめく刀の光が、おそろしいほど美しく思えた。これは力だった。脳髄まで痺れさせる暴力の誘惑。青江の脳がやけるように熱くなった。

 

「……それが刀の顔というやつか。なるほど、悪くない。女と関係を持つまでは、君は素晴らしい刀だったに違いない。誇り高く、美しく、そしてどこまでも気高い刀。君に過ちがあるとすれば、女という生物に興味を抱いてしまったことだ」

 

俊兼は刀を鞘におさめた。青江の過去、その忌まわしい光景を見ていたかのように、堂々と語る。

 

「君は女を侮っていた。彼女たちの底なしの生命力、本能……その何もかもを知らなかった。だからこそ、好奇心を満たす対象として、そんな浅ましいことが出来てしまったんだ。君はすぐに気づいたはずだ。そうだろう?」

 

青江は無言のままだった。表情は相変わらずだが、両目には獣が住んでいた。殺意すら感じられる視線で俊兼を見つめた。考えれば考えるほど迷いが深くなる。当然、当然なのだ。にっかり青江には、俊兼の弁論じみた言葉を否定する材料がどこにもないことに気づいていた。

 

ただ、その不思議なまでの生命力に惹かれただけ。

ただ、その奇妙なまでの生々しさに惹かれただけ。

ただ、その愚かなまでの強かさに惹かれただけ。

 

それだけだったのだ。なのに、だというのに。気づいた時には、何もかもが手遅れだった。女の中には、深く暗いものが詰まっていて、紛れ込んだ僕はは呆気なく食い尽くされた。

 

そこから生まれたのは、得たいの知れない自我と性。それは心に根を張り、青ざめた姿をほのかにあらわす。まるで幽霊のように僕をさし招く。美しい女たちの謎が、激しく、熱っぽくあつく、僕の体を駆け抜ける。本能があつく燃えあがり、熟するのを感じた。

 

僕を形成する何かが、ゆるかやかに、しかし確実に歪なものへと変化する。そうして、僕の記号は書きかえられた。予め定められていたかのように、僕の存在は固定され、拘束される。

 

僕は知っている。人々がそれを“性”と呼んでいることを。

 

「………ただの好奇心だったんだけどねぇ」

 

青江は観念したようにため息をついた。雨の音が耳鳴りのように、絶え間なく頭の奥で響いている。その全てを無視しながら、再び髪を撫でる。指を絡ませ、なぶった。強く引く。小さな音がして、毛が抜けた。かれはしばらくそれを弄んだあと、床に落として、踏みつけた。

 

「刀に性別なんてない。僕に……刀剣男士にとってこの姿は仮初めに過ぎず、大きな意味を為さない。でもそうじゃなかった。女を知れば知るほど、僕は刀として不完全になり、男になっていく。僕はそれが許せなかった。例え不完全な刀に成り下がっても、刀であることに変わりはないから」

「刀としても、男としても不完全。君が不良品と呼ばれた由縁はそれか」

「優柔不断な奴は好かれないだろう?」

「だが、水花はそうじゃなかった」

「そう、水花だけは違った」

 

水花、と青江は囁くように呟いた。佐脇水花。僕に与えられた光、希望、幸運……そんな類いの女。だからこそ、これ以上はないもの。女を知る僕だからこそ知っている。女は香りだ。死して尚、浅ましく男を求める女であろうとも、憎まれて尚、愚かしく男を求める女であろうとも、その香りが鼻腔を満たしてしまえば、もう逃れることは出来ない。

 

そう、水花はあの香りそのものだ。

 

だからこそ、刀である僕は君を拒み、男である僕は君を求めた。相反する本能は渦を巻き、僕を溺れさせる。だが、君の甘がなしい香りは、この深い海の底で、水中花のように咲き続けていた。

 

「だから僕は水花を失いたくない」

「……なればこそ不良品か。しかし、ただの男に成り下がるつもりもないと」

「いくら不良品とはいえ、半分は刀である事に変わりないからねぇ……。情けない話かもしれないけど、僕にだって見栄というものがあるのさ」

「情けない話だな。しかし、男とはそういうものだよ」

 

俊兼は頷いた。顔面には傲慢の対局にあるものが浮かんでいる。幼い頃から多くの人間の上に立ってきた者だけに可能な、鋼のような硬さと重さのある声が、応接室に響いた。

 

「男は自分をうまく騙すことが出来ない。だからこうして見栄を張るんだ。若い頃の俺はそれに気付かず、自分が男であることを過信していた。いや、盲信していた。……水花という女を知ってから、ようやく気づいた。彼女たちはどのような時でも、自分に対しては正直であろうとする。少なくともそう信じこむ。この強さは女の特権だ。男の強さとは全く別の何か」

「……水花はまだ女の子でもあるよ」

「水花は生まれながらの女だ。……来なさい、水花の所へ連れていってやろう」

 

俊兼は身だしなみを整え、背筋をさっと伸ばして、応接室の扉を開いた。灯りはほとんど消されていたが、よく磨かれている豪奢な廊下が目にはいる。

 

青江は目を細める。古い絵画でも眺めているような顔をして、ただ、廊下だけを見つめる。その時、雷鳴が聞こえた。まるで夜が自殺でもするかのような荒々しい雷の音に、耳が痙攣した。

 

「審神者に就任から、水花からの連絡はなかった」

 

俊兼は言った。足音を廊下に響かせている。散歩でもするようなのんびりした足取りだった。

 

その真意について考えを巡らせながら、青江は視線を逸らす。ふと、鼻腔を刺激する甘やかな香りに気づいた。そっと神経を研ぎ澄ます。体を痺れさせるような強い香り。それでいて、心をそっと包み込むような優しい香り。それはひっそりと漂いながらも、ありとあらゆる場所に染み込んでいた。その香りで肺を満たしながら、かれはため息をもらした。

 

「……水花は泣いていた」

 

俊兼が話していた。青江の美貌に微かなおかしみが添加された。こんな時でさえ、水花という女の香りに酔いしれる自分に、奇妙な愚かしさを感じていた。軽く咳払いをして、意識を元に戻す。

 

「電話越しで泣きつかれても、俺にはどうすることも出来なかった。何を話しているのかさえ聞き取れなかったから、仕方がなく時間を作って迎えに行った。しかしまさか、痴話喧嘩が原因とはな。叱る気も失せた」

「……そんなに可愛いものかな、あれ。大人しい彼女にしてはびっくりするぐらい激しかったけど」

「よくも悪くも感情をコントロール術を知らないのさ。子供の頃からそうだった」

 

俊兼は小さく頷いた。表情は分からない。青江に見えているのは、彼の背中だけだった。どんな言葉をかけるべきか、小さな迷いが生じた。こんな時、水花ならどうするのかな、と思っていた。きっと、きっと子ウサギのように震えながら、父親の背中を見つめているんだろなぁ。可愛いというべきか、可哀相というべきか、僕には分からないや。

 

俊兼は何の言葉も必要としていなかったらしい。彼は沈黙を楽しむかのように話を続けた。適度に感情を含ませていながら、冷酷に近い何かを宿している。父親というよりは、上司とでもいうような雰囲気を醸し出していた。

 

「専門の医師にも見せた。不安や恥じらいなどのそれよりも強い感情が邪魔して、ある意味、普段から感情的なんだと。それゆえ、感情が怒りに染まった際には、感情的であるがゆえ、それをコントロールすることができないそうだ。もちろん、俺は努力したよ。水花は佐脇家の嫡子。当主として、出来る限りのことをした。しかし、駄目だった。それどころか悪化した」

「……だから相続権を取り上げたのかい?」

 

わずかな可能性について考えながら、青江は訊ねた。そのせいか面を被ったような冷たい表情をしている。ある意味、佐脇を想っての態度だった。

 

すると俊兼は、ある扉の前で立ち止まる。美しい彫刻を施した扉だった。鍵が掛かっているらしく、扉は貝殻のようにぴたりと固く閉ざされた。まるで開けられることを拒んでいるかのように見えた。

 

「……それだけならば気楽だったよ」

 

俊兼は青江に背中を向けたまま言った。声は闇を吸い込んだかのように、どっしりと重苦しかった。指先で扉を静かに撫でる。まるで死を目前にした患者を慰める医師のような、慈悲深さに溢れる行為だった。

 

「ただ内気なだけなら、いくらでもフォローしてやれた。完璧な人間などいない。欠点なんてものは誰にでもある。あの子をサポートしてやれるだけの、優秀な人材を揃えればそれで済む」

 

俊兼は一呼吸おいてから、肩を大きく回して振り返った。眉目秀麗な顔に諧謔をにじませ、にやりとした。

 

「例えばあの子に見合う男を探してやり、夫にしてしまう。水花を形ばかりの当主にして、仕事は全て夫に任せる。そして俺は穏やかな隠居生活を楽しむ。どうだ、完璧だろ?」

「そんなことになったら、僕は君とその男を斬ってしまうかもしれないねぇ」

「冗談にしては面白くないな」

「冗談に聞こえるかい?」

 

猫のように目を丸くした青江は、俊兼の顔をしっかりと見て、腰に手を当てた。何を言うのかという目付きを意図的につくって、ため息をもらす。深緑の艶やかな髪が、わずかに揺れた。

 

「君だって分かっているだろ?僕は完璧なにっかり青江じゃない。人を笑わせる為の冗談は早々口にしない。……水花の前ぐらいしか、ね」

「……例え話を持ち出しただけでこれか。安心したまえ、そんなことはせんよ。というより水花は、それでどうにか出来る女じゃない」

「どういうことだい?」

「そう焦るな、部屋を見れば分かる」

 

俊兼はそう言や否や、胸ポケットから一本の鍵を取り出した。アンティーク調の凝ったデザイン鍵には、美しいバラの模様が施されている。彼はそれを弄ぶように左右に揺らしながら、皮肉めいた笑みを浮かべた。

 

「水花の部屋の鍵だ。もちろん合鍵じゃない。あの子が家を出た時、俺に預けてきた。断るつもりだったが、泣きつかれてね。仕方がなく預かっていたんだ」

「へーぇ。それは良かったねぇ……」

「水花はそういう子なんだよ」

「そう。じゃ、さっさと開けてくれないか」

 

俊兼は肩をすくめた。それから諦めたように大きなため息をついて、そのまま鍵を青江に手渡した。

 

「どうぞ」

「……どういうつもりかな?」

 

青江は訊ねた。探るような表情をつくっていた。探りすぎる態度にもならないよう気をつけていた。満月を溶かしたような金色の瞳に、小さな光が宿る。すると俊兼は満面の笑みを浮かべた。つくり笑いではなかった。どこまでも人間らしい、動物的な笑顔だった。

 

「俺にはもう必要のないものだ。日頃の感謝を込めて、この鍵は君にプレゼントするよ」

「…そう。ならお言葉に甘えて、これは僕の物にしてしまおうかな」

「ご自由にどうぞ」

 

俊兼は廊下の壁にもたれ掛かるように立った。余裕めいた笑みをたたえたまま、顎の先を片手で擦る。仕掛けた罠にネズミがかかるのを見守っているかのように、ゆっくりと目を細めた。

 

「この部屋を見て、君がどんな反応をするか楽しみだよ」

「それじゃまるでビックリ箱じゃないか」

 

青江は咳き込むように笑った。妖美と称すべき顔に、奇妙な陰りが生じる。まるで初めて幽霊と対峙した子供のように、青ざめた初々しさがあった。両手をあげてみせる。

 

「まぁ、何があったところで僕の気持ちは変わらないけど」

「そう言ってられるのも今のうちだと思うがな」

「それはどうかな?」

「そうだよ」

 

俊兼は断定した。わずかに首をかしげて続ける。

 

「だからこそ君に見てもらいんだよ。水花ほど複雑な女はそうもいないからな。さ、何をしている?君も男なら覚悟を決めたまえ」

 

……雷鳴は続いていた。

​●過去と歌う 7

オルゴールの音色が泉のように、遥か彼方の、深みより湧き上がる。それは美しくも寂しい音の旋律だった。数えきれないほどの音が絡み合って、一つとなり、その部屋を彩るハーモニーとなる。

 

青江は吸い込まれるように部屋に足を踏み入れた。灯りは消されている。暗闇が内気な幼子のように、かれの傍らに寄り添って、うめき、心と体を重くする。

 

ふと、甘やかな香りが、重たさを感じるほど密に匂っていることに気がついた。その香りをたっぷりと吸い込んでから、かれは足音を忍ばせ、レースのカーテンで四囲をしきった四柱寝台へ歩み寄った。愛おしい女の安らかな寝息を耳にし、一瞬だけ瞼をとじて、音を立てることなく窓に面したカーテンを開けた。

 

雷光が佐脇水花の寝姿を浮かび上がらせた。年のわりには幼すぎる寝顔であった。ただし、なかばはねのけられた上掛けからのぞく胸と腰は、これ以上ないというぐらいに発達している。その淫らで美しい佐脇の寝姿が、青江を陶酔へと誘う。

 

「……水花」

 

かれは囁くように呟いて、しばらくの間その場に立ち尽くし、愛しくてならない女の寝姿を眺め続けた。胸が弾むように高鳴る。脳は焼けるようにあつくなり、体の芯が疼いた。肉体的欲求を振り払うように、佐脇の頬を撫でる。ふっくらと柔らかな肌の感触、その温もりが指を伝って首筋まで駆け抜けた。表情がわずかに緩む。

 

「おいおい、まずは部屋を見てくれよ」

 

俊兼が艶やかさすら含めた笑いを漏らし、青江の傍らに立った。両手をポケットに無造作に突っ込んで、我が子を一瞥する。

 

「安定剤を服用させた。しばらくはこのままだよ」

「ふうん。……それで、部屋がどうしたっていうのさ」

「見れば分かるさ。君、夜目が効くんだろう?」

「まあね」

 

青江は名残惜しそうに佐脇から視線を外して、そこで初めて部屋を見た。言葉を失う。心臓を一突きに刺されたような表情を浮かべ、辺りを見渡す。

 

雷の轟きが、地震のように窓を揺さぶる。部屋は雷光に照らし出され、白い光の中で、幻のように眩しく揺らめいてる。その刹那、オルゴールは時を止めるかのように沈黙する。美しい音の響き、その輝きは、永久に失われない宝と思われたのに、闇の彼方へと吸い込まれ、あとには静寂だけが残った。

 

青江はその全てが出鱈目に思えた。暗闇を口づけるように目を細めて、喉の奥から唸りを漏らした。

 

色あせた人形が悲しんでいる。

壊れた真珠のネックレスが呻いている。

薄汚れたぬいぐるみが震えている。

ひび割れたハーモニカが泣いている。

傷だらけの指輪が苦しんでいる。

 

これはガラクタの墓場だった。祭壇のような飾り棚に飾られ、ひっそりと横たわっている。それらは青ざめた夢を漂わせ、幽霊のように呼吸している。死にゆく幻の中で微笑みながら、ただ、暗闇だけを見つめている。

 

青江は硬直した。ありとあらゆるものが一度に襲いかかってくる。圧倒的であるからこそ、かれの脳は懸命に回転を続けた。止まることは許されない。そうなってしまえば、何もかも失うことになる。奥底が燃え上がるようにあつくなった。

 

硬直が解けたとき、青江は全てを理解した。片手で頭を抱えて、微かな暗さを含んだ声で呟く。

 

「あぁ……なるほどねぇ……」

「気付いてくれたか」

 

俊兼は醒めた声で答えた。心に孤独を抱えながら生きる人間のように、うろうろと部屋を歩き回る。そこでようやく、壊れかけたオルゴールの存在に気付いた。慰めるようにゆっくりと撫でる。意味もなくゼンマイを巻き直しながら、相変わらずの口調で続けた。

 

「捨てられたガラクタを集めるのが、水花の趣味なんだ。……まるで君たちの本丸みたいだろう?」

「……僕ら刀剣男士を顕現させる力がないからって言ってたけど?」 

「ハッ、まさか。相続権を失っているとはいえ、水花は優秀な魔術師だぞ?」

「魔術の才能がないから相続権を失ったと、僕らには話していたけどねぇ……」

「……そんな見え透いた嘘を君は信じたのかね?」

 

俊兼の微笑が歪んでいた。青江は何も答えぬまま、やや憂いを含んだ表情で目を閉じる。頭が澄み渡った。なにもかも説明がついた。そうか、と確信した。そう、そういうことか。あの本丸は水花の宝箱、おもちゃ箱、そんな類いのもの。君にとって僕ら刀剣男士は、道端に捨てられた哀れで可愛いガラクタ。君がなぜ僕らをこんなにも手厚く扱うのか、今ようやく分かった。僕が、僕らこそが、君にとっての唯一の慰めだからだ。

 

その瞬間、オルゴールが波紋のように息を吹き返す。ふくよかで美しい音色がゆったりとまどろみながら、部屋の中を漂う。

 

「……水花がガラクタを集めるようになったのは……俺が躾をするようになってからだ」

 

俊兼は手を後ろに組んで、再び歩き回りはじめた。冷たい、ほとんど酷薄と称して良い声で昔話を語り出す。その顔は罪人のそれであった。

 

「水花は……水花は大人しく内気で、積極性に欠けた。次期当主として相応しい人間になるよう、俺は出来る限りの事をした。専門家を雇い、その指示に従って改善出来るよう精一杯努力してきた。だがしかし……」

 

一瞬、俊兼の瞳から感情が失せた。黒く冷やかな過去、その記憶を意識の外へ押し出すように、顔を上げる。唇がピクピクと痙攣していた。

 

「正しい事を積み重ねれば積み重ねるほど、 水花はゆっくりと歪んでいった。内気な性格は治るどころか酷くなった。他者を怖れ、怯えるようになって、しまいには泣き癖がついた。……ガラクタを集めだしたのはそんな時だ」

 

強烈な発光が暗闇を呑み込んだ。雷光によって、部屋が流星のように煌めいたのだ。ほんの一瞬、俊兼の姿が影絵のように実体なきものへと変化する。オルゴールから紡がれる優美な音の調べが、怯んだように音程を外した。しかしそれでも、メロディーはたゆみなく流れ続ける。

 

「そう……雨に濡れて可哀想だからと、ぬいぐるみを拾ってきたのが始まりだった。最初、俺はただの気まぐれだと思っていた。……しかしそうじゃなかった。日を重ねるごとに、水花はガラクタを拾っては飾るようになった。それはもう……まるで宝物でも扱うように、大切に飾っていたよ。否、水花にとっては宝だったんだろう……。俺からしたらただのガラクタだがね」

 

俊兼は笑った。その表情は、彼を憎む者ですら哀れむほど悲壮感に満ちあふれていた。雄々しいとは言い難い弱々しさを含ませて、彼は何かを思い付いたように立ち止まる。

 

青江は意味ありげな表情をつくり、俊兼へと視線を向けた。そこには、いかにも手間がかかっていそうな細工の施された木箱があった。闇よりも深い悲しみを抱きしめるように、俊兼はそれを手に取った。奇妙とも言うべき光をその目に宿して、青江に顔を向ける。

 

「開けてみるといい」

「……僕へのプレゼントかな?」

 

青江は挑むような調子で訊ねた。内心で黒いものと白いものが、ゆるやかにせめぎあっていた。その全てをかろうじて抑えられたのは、かれが刀剣男士として成長したからではない。佐脇水花という存在が、かれの心に重圧をくわえ続けているからだった。

 

「見れば分かる」

 

俊兼は判決を下す裁判官のように言い切った。木箱を顎で示しながら、来客用の椅子に腰をおろす。

 

青江は箱の中身を見るや否や、眉を潜めた。喉の奥から嫌な音がひっそりと漏れる。俊兼が発した言葉、その意味するところが分かってしまった。思わず、低い声で笑った。

 

「んふふっ、これは驚いたねぇ……」

 

……箱の中には、実に仕上げの良いぬいぐるみがおさめられていた。輝かしい王冠をかぶり、豪奢なマントをまとうその姿は、まごうことなき王子そのものであった。ただしその外見は、青江と瓜うり二つというほどよく似ている。深緑の髪をひとつに結い上げて、暗闇の中でにっこりと微笑んでいた。

 

「それが水花のお気にいりだよ」

 

青江の様子をうかがっていた俊兼は言った。飾り立てた言葉を使わず、ただ、真実だけを淡々と口にしていく。

 

「公園に捨てられていたそうだ。……水花はそれをどんなものよりも大切にしていた。まるで自分を慰めているかのように、いつも肌身はなさはず持ち歩いていたよ。なぁ、もう分かるだろう?」

 

俊兼は痙攣のような微笑を浮かべ、首を傾げた。それから挑発するように、手と足をゆったりと組んでみせた。行為そのものは失礼極まりないが、下品さはまるでない。指先まで神経のゆきとどいた洗練された動作は、どこまでも美しかった。であるからこそ、狂気じみた何かがはっきりと見えていおり、青江の神経をこれ以上ないほど逆撫でした。もちろん、感情の赴くままに動くことはしない。

 

「なるほどねぇ」

 

青江はため息のように呟いた。柳眉を下げ、少しだけ渇いた下唇を舐めた。自分の分身とも言えるようなぬいぐるみを両手で抱いて、その肌触りを意味もなく確かめる。絞らずとも蜜が滴り落ちそうなほどに熟れた果実の香りが、ほんのりと匂い立っていた。

 

「僕を傍に置きたがる理由はこれだったんだねぇ……」

「ショックだったかね?」

「時たま、僕のことを可愛いと言ってくれたけど……こういう意味だったのかな?」

「さあ?俺は水花本人じゃないからな。今はどうか知らんが……。少なくとも君への興味、そのきっかけは間違えなくそれだろうな」

「…………」

 

青江は何も答えなかった。刀であるかれは知っている。物であるからこそ分かっている。この世の誰にでも生きるべき理由があり、それは時として呪いとなって、命を蝕んでいくという事を。なんと虚しい。だからこそ尊いのかもしれない。それでも尚、命は神々しいまでに輝いているのだから。

 

雷鳴が獣のような唸り声をあげた。するとオルゴールはか弱い乙女のように、汚れなき悲鳴をあげる。美しくも哀れな音色だった。やがて滅び行く命の儚さを謳うかのように、どこまでも痛々しい。

 

「…………んっ」

 

鈴の音が響き渡る。青江は後ろを振り返った。佐脇の寝言だった。鈴を転がしたような儚い音の旋律に、心が締め付けられる。否、それは少し違うかもしれない。彼女の声を耳にした瞬間、愛情以外のものを覚えたのである。

 

凍るほど冷たいはずの刀剣男士の血がたぎる感覚だった。であるからこそ、かれは自分が感じたなにかを努力して無視しつつ、佐脇へと近づいた。

 

佐脇は薬によってぐっすりと眠り込んでいる。まるで深い海の底でまどろむ真珠のような美しさだった。男の唇を受け止めるだけにつくられたような唇が微かに開き、可憐な舌がちろちろと踊っている。

 

……甘い声が脳内で反響した。

 

(あおさん、あおさん、わたしのかわいいあおさん)

 

青江の背筋が震えた。無償の愛などという甘い夢を盲信していたわけじゃないが、少なくとも、信じようとしていた自分の愚かな感情に気がついた。刀としてというよりは、男としてのそれであった。愛する妻が不貞を働いても尚、その現実から逃れるように妻を信じてしまう。そんな男としての愚かしい想い。

 

しかしそれでも、佐脇への愛情を失う理由にはならなかった。ある意味で、それがかれなりの愛情でもあったが、それだけというわけでもない。恐怖だ。佐脇水花という女を失う恐怖。その圧倒的な力が、刀としての矜持すら踏みにじる。

 

「……んふふっ、まるで僕は愚かな道化師だねぇ」

 

青江は笑った。楽しげではあるが、どこか切羽詰まった響きが含まれている。

 

「面白くもない芸しか出来ず、全くの善意から笑ってくれる客を愛してしまう。ただそれだけを求めて、自分の芸を磨く努力もしない。そんな愚かな道化師。……それが今の僕だ」

「安心したまえ。男とはそういうものだよ」

 

俊兼は手を小さくあげ、案じるように言った。恥ずかしさを覚えたのか、意味もなく床に視線を落としたあと、話を続けた。

 

「男はそれについて口にしないし、認めたがらない。……理由?理由は簡単だよ。あまりにも情けないことであるからだ」

「……そうだと分かりながら、なぜ女たちは僕らを見放さないのだろう」

「利用価値があるからに決まっているだろう?」

 

俊兼は立ち上がった。皮肉めいた笑いを、押しつけるように青江に向ける。

 

「女は狡猾な生き物だからな。俺たちの安いプライドなど、内心は馬鹿馬鹿しいと呆れながら、可愛らしく振る舞える演技が出来るんだ。……ただそれは、生活の保証だとか、寂しさの埋め合わせだとか……要するにだ、そうするだけの利用価値がある間だけなのだ。なくなってしまえば、あっという間に、な?」

 

俊兼の言葉に含まれたものを理解した青江は、忌まわしい妖怪でも見るように唇を歪めた。新城に捨てられた理由、その真実について考えを巡らせる。笑いの発作が突き上げてくるのを覚えた。

 

ああ、と青江は小さく呟いた。要するに僕は、刀としても男としても不完全であるが故に、新城から捨てられたのだ。利用価値がなき不良品。水花を慰めるだけの不良品。にっかり青江というには、何もかもを失いすぎている。しかしそれでも、僕は、僕は……。

 

「……水花もそうだと言いたいのかい?」

 

青江は暗い笑顔を浮かべた。宗教家の主張を耳にした科学者のような表情をつくり、ぬいぐるみを強く握りしめる。

 

「面白い話をひとつしてやろう」

 

俊兼はまったく冷酷な顔つきで言った。それから彼は、外を見るためにカーテンをゆっくりと開けた。ガラスに室内がぼんやりと映っている。雨粒が窓にべったりと張り付いて、名残惜しそうに滴り落ちていく。雨はまだ降り続いている。

 

「……昔、そのぬいぐるみの落とし主が屋敷を尋ねてきたことがあった」

 

俊兼はカーテンを閉めた。彼は遠い記憶を探るように目を細める。懐かしんでいるようでもあり、哀れんでいるようでもあった。その目の上で風のように動く睫毛が、ひどく物悲しい。疲れ果てた草木のように見えて、青江の心をざわつかせた。遠い昔、それを見たことがあった。誰だったかは覚えていないが、そんな気がした。

 

「……こういう事は初めてじゃなかった。落とし主が屋敷を尋ねた際、水花は必ずガラクタを返した。しかしこのぬいぐるみだけは、絶対に返そうとしなかった。赤ん坊のように泣きじゃくるだけで、首を縦に振らなかった」

 

俊兼はうなだれるように壁へと寄りかかった。腕を組んで、口元をわずかに痙攣させる。

 

「最終的に水花は折れたよ。一日だけ時間を欲しいと俺に頼み込んでね。俺は許した。しかしそれがいけなかった。……次の日、ぬいぐるみの両足が切られていた。もちろん、犯人は……言うまでもないだろう?」

 

調律の狂ったピアノのように、オルゴールは壊れ始める。低音は重いハンマーで叩くように、高音は猫の足が歩くように、音と音とが絡み合いもつれあって、最後には解れていく。

 

青江はぬいぐるみを抱き上げた。スラリと長い両足には、うっすらと縫い跡が残っている。眉を潜めた。生きているはずもないのに、そんな類いの何かを感じた。

 

このぬいぐるみも、夢のように長い年月を積み重なれば、やがて付喪神が宿る。どんな想いを核として生まれるのか、興味が沸いた。もしかしたら佐脇水花の歪みを引き継ぐのかもしれない。それはそれで楽しいと思った。たぶんこれは、刀としての思考だ。ハッキリと断定は出来ないが。

 

「それは水花が縫ったんだ。ごめんなさいと何度も言いながら、夜通し縫っていたよ。といっても、落とし主に返せるわけがない。適当に誤魔化すしかなかった」

 

あらゆる感情を無視するかのように、俊兼は顎を上げ、天を仰いだ。そこには闇に染まり上がった天井だけが、ひっそりと存在していた。彼は暗闇に潜む妄想上の怪物を目撃したような表情をして、告げた。

 

「……君もいつか両足を斬られてしまうかもしれんな」

「そうなってしまったら不幸だねぇ。うん、不幸だよ」

 

青江は鞠の弾む様を思わせる声で、断定した。歪な愛に包まれたぬいぐるみを、音を立てず佐脇の横に置く。佐脇は切なげに呻いたが、目を覚ますことはなかった。

 

「……水花をこんな風にしたのは俺だ」

 

俊兼は言った。額を抑え、ゆっくりと揉んだ。薄い皮の感触を楽しむかのように、その行為をいつまでも続ける。

 

「正しい事を押し続けた結果、水花は報われぬ何かを抱き続けたまま、その歪みを完全なものにしていた。それは抱きしめれば壊れてしまいそうなほど脆く、そうであるからこそ美しくもあった。しかしその歪みを他者にぶつける事はなかった。否、出来なくなっていた」

 

俊兼は苦しそうに言った。そこでようやく壁から背中を離し、彼は足を引きずるように歩いた。顔面から笑みが消えている。

 

佐脇水花という女の、呪いにも似た歪みについて触れているからだろう。

 

「……人間はストレスを一定量溜め込んだら、外に吐き出そうとする。だが水花はそれが出来なくなっていた。……というより、その術を学ぶ機会を俺が与えていなかった。その結果ストレスは内に蓄えられ、吐き出したくなったら、自分にぶつけるようになった」

「それがあの過呼吸」

「そういうことだ」

 

俊兼はオルゴールの右端を指で探りはじめていた。ゼンマイを巻き直そうしているらしい。慣れた手つきだが、どこか物悲しさを感じる。

 

青江はため息を漏らし、目を伏せた。これが親の情というものか、とかれは思った。ふざけているねぇ。こんな時にそれを初めて実感してしまうなんて。ふざけている。本当にふざけているよ。

 

満月を溶かしたように美しい瞳が、微かにくすんだ。歪なものを含ませた表情を浮かべ、やがて何かに耐えるように、ゆっくりと頷いた。

 

「……君の尻ぬぐいなんて御免だよ」

 

青江は言った。冷静極まりない声だった。慈悲もなく容赦もなく、まったく無抵抗の敵を刺殺する男にふさわしい声だった。かれは再び佐脇に視線を向けると、睦言をささやく恋人のような甘さを含ませて呟いた。

 

「僕は水花の刀だからねぇ」

「凄いな、即答か。……君の為すべきことは、水花を本丸に連れて帰ることかな?」

「そういうこと。まあ、彼女の話を聞かせてくれたのは嬉しいんだけどね」

「この話しにはまだ続きがある」

 

俊兼は顔を上げた。自嘲的な微笑を浮かべる。しかし彼の声は、熟練した執事のように落ち着いたものだった。

 

「このオルゴールもそろそろ駄目だな」

 

俊兼は哀れむように静かに言った。

 

オルゴールは狂を発したような音色を響かせていた。窓の外から、世の終わりを告げるかのような、忌まわしい雷鳴が轟いた。何かが崩れ、何かが壊れていく。そんな奇妙な感覚を覚えた。

 

「……水花が16の誕生日を迎える頃、自殺未遂を図った」

 

俊兼は張り詰めた声で言った。青江は、彼の表情が僅かに青ざめていることに気がつき、黙っていることにした。

 

「理由は分からんもうすぐ16歳になろかという娘が、冷たい海に身を沈めて命を絶とうとした。壊れかけた人形のように横たわる水花を見たとき、俺はやっと全ての過ちに気がついた」

 

青江はただじっと俊兼を見つめた。俊兼の顔に、絶望や諦めといったものすら突き抜けたような表情が浮かんでいた。闇よりも黒い光を宿した瞳が、鈍く煌めいた。

 

「俺は一度たりとも水花に“お前は間違っていない”と言ったことがなかった。正しい事を言い訳にして、それを押しつけ、積み重ねていった結果、水花はとうとう壊れた。こんな状態では佐脇家を継がせることなど出来ない。……死に追い込まれても尚、水花は俺に謝っていた。私が悪いの、ごめんなさい、ごめんなさい……と」

 

俊兼は黙りこんだ。美しい蜃気楼を見つけたように、右手を闇の果てに向けて上げる。すぐに元に戻した。何かを掴んだように、拳を握る。手の中にある、夢そのものといってよいもの、その温もりから逃れるように、拳を開いた。そこにはもちろん何もなかった。

 

「……僕は君の為の道具じゃないよ」

 

青江はため息のように呟いた。天井を見上げる。そこに刻まれている模様は不快に思うほど美しかった。そこでようやく、かれは想像した。

 

例えば俊兼が、地位も名誉もないただの父親で、水花を、あの悲しいまでに歪んでしまった娘を、心の望むままに受けいれていたならば。それはけっして叶えられない夢ではなかったはずなのだ。いや、もし叶えられていたならば、水花と自分が深く交わることもなかった。

 

瞬間、何かが見えた気がした。それは人並みの幸せを享受している水花の姿と、愛らしい娘を抱いて笑み崩れる俊兼の顔だった。その楽園のように美しい世界に自分はいない。ただ不良品として捨てられるのみ。血にまみれ、女に汚され、そして刀として不完全に成り果て、捨てられるだけの哀れなにっかり青江。否、にっかり青江だったもの。

 

であるからこそ、青江はその楽園を受け入れることは出来なかった。佐脇水花への異常極まりない執着心が邪魔をしていた。だからといって、まるで誰かにあつらえたような幸せに浸ることもひどく気に入らなかった。大切な物事が自分の範囲外で働いている。それが何よりも気にくわなかった。

 

「君の望むままに水花を慰めるなんて御免だねぇ」

「何を言っている?」

 

俊兼は不思議そうな顔をすると、わざとらしく両手をあげた。

 

「俺は娘の話をしただけさ。どう受け取るのは君次第だよ。……昔、水花に好意を抱いた男たちに、ぬいぐるみを斬った話をしたことがあるな。気味悪がって早々に立ち去ったよ。美しい花には刺があるという事を、彼らは理解していなかったのだろう。……水花の場合は毒か」

 

息を引き取るように、オルゴールの音が止まった。音と音の余韻が連鎖して、甘悲しい旋律になる。死を体現したかのような沈黙が、部屋を支配する。

 

青江は石柱を飲み込んだような姿勢で、俊兼を睨んだ。

 

佐脇水花は香りそのもの。深い海の底で、殆ど忘れられて花咲く水中花のように、儚くも美しい香りを漂わせる乙女。鈴の音を転がしたような可憐な声音で、甘やかな誘い歌を口ずさむ。その魔性に吸い込まれ、狂わされ、そして溺れていくのだ。

 

……熟れはじめた果実のような毒を含んでいるとも知らずに。

 

「君はどうする?このまま立ち去るか?」

 

俊兼は訊ねた。どこか、いやらしいものを感じさせる表情であった。

 

「新しい審神者なら、俺がどうにかしてやろう。うまくいけば、水花よりよほどまともな審神者が就任してくれるかもしれないぞ」

 

青江は右眉を微かにあげる。神の慈悲を全身で拒む罪人のように、冷ややかなものを含ませて答えた。

 

「いいや?難しい言葉を使ってしまうと、僕は現任務の継続を希望したい。水花が審神者でないと、僕は困るのさ。もちろん男としてもね」

「ならば君の気持ちを証明するといい。水花の刀剣男士として、男として、十分なものを示してくれ。……水花がどう受け止めるかは分からんがね」

「それはそうだ」

「ところで、一つ気になっていることがあるんだがね」

「何かな?」

 

俊兼は笑った。室内の空気がゆるむ。彼はさっと背筋を伸ばして、扉へと向かった。

いつのまにか、それまでの激しい雷が嘘のように止んでいる。そのせいか足音がはっきり聞こえるようになった。

 

俊兼がようやく口を開いたのは、ドアノブに手をかけたときだった。

 

「君、趣味はあるかね?」

「趣味?」

「そう。まともな男は、必ず趣味のひとつぐらいは持っているべきだよ。たとえ妻でも立ち入ることの出来ないものを。心の余裕、その象徴としてね」

「へぇ……。そういえばこれといってなかったかな。うん、考えておくよ」

 

青江は頷いた。会話が途絶える。一瞬の沈黙があった。窓の外から、弱々しい雨音が響いた。佐脇の寝息が愛しさを感じるほどに聞こえてくる。

 

二人の男は、どちらともなく笑った。

 

「久しぶりに楽しかったよ。君に競争心を抱くには、俺は年を取りすぎた」

「ねぇ、僕も一つ気になっていることがあるんだけど」

「何だね?」

「何故、君は水花を審神者にさせたんだ?」

「ああ……」

 

俊兼は思い出したように声を漏らした。魅惑的な微笑とともに答える。

 

「ただの冗談だよ。確か、相続権を失う前だったな……。魔術師になれなかったときは、審神者にでもなったらどうだと。酒に酔っていたせいもあるが……まさか真に受けるとは思わなかった。ま、今となってはどうでもいい話だよ」

​●過去とともに 8

この夢は花園の国であった。歌声が花の野に湧き出し、歌姫の幻めいた姿が、乙女の甘美な夢を彩る。

 

歌姫の戯れ、その美しさを、抱きしめるように追いかけた。そこから発せられる甘い香りに包まれながら、乙女は熱い道を歩く。そこでようやく気がついた。幻聴のようなものが、生ぬるい風と共に漂っている。そっと耳を済ませて瞼を閉じる。

 

花々が冷笑している。

草の野が嘲笑している。

木立ちが嗤笑している。

 

冷たい花園のざわめきが歌声を掻き消していく。その終わりに向かって、乙女は走り出した。

 

(待って……)

 

空は澄み渡っている。行く雲は銀色に輝きながら、太陽に想いを寄せる。蜃気楼のように実態なき美しさに魅せられながら、息を吸い込む。草花の匂いを含ませた風が、ゆるやかに吹き付けてきた。

 

その全てに飲み込まれる感覚に陥りながらも、乙女は立ち止まらなかった。足取りは重い。歌声は聴こえない。自分が何処にいるのかさえ分からない。

 

この美しい花園の中で、ただ無為に空と雲と花とを眺めながら、歌姫の幻を求めて走り続ける。小さな手は戯れるように、儚い虚空へと伸ばされる。

 

……声が聞こえた。

 

それは遥か遠く、とても近い場所から、乙女の子宮を包み込むように、耳の奥へと押し入る。まるで子守唄のようだ。しばらくしてそれが何であるかに気づいた。

 

ああと乙女は思う。心と体が兄弟同士のように、溶け合っていく。夢の中で溺れる人間特有の反応で、思考を巡らす。苦痛と快楽に浸りながら、疲れた子供のように、甘やかな声に聞き入る。その後は言うまでもない。

 

目が覚めた。

 

「…………うんっ」

 

乙女、佐脇水花はうめき声を漏らした。

 

レースのカーテンに包まれた寝台だった。しっとりと肌ざわりの良いシーツ、その上に柔らかな布団や毛布を布いてつくられている。しずまりかえった部屋のなかに、雨音が忍び込むように聞こえてきた。決して耳障りではない、優しい響き。

 

そうしているうちに、まどろみが眠気を誘う。瞼が貝がらのように閉じ始め、再び夢へと吸い込まれそうになる。

 

しかしそうならなかったのは、優しい声が語りかけてきたからだ。

 

「……お目覚めかい?」

 

半熟卵のようにとろんとした、どこか甘ったるい声だった。その淫らな誘惑に誘われながら、佐脇は周囲を見回した。暗闇の中から、幽霊のように青白い姿が、すぅっと浮かび上がる。ふと、部屋に光が差し込んだ気がした。そんな印象があった。月光が発する濡れたような光だった。

 

濃紺色の美しい軍服。

抜けるように白く、ほんのりと青い白装束のマント。

溶けたような美貌へ、妖艷な気配をつけくわえた秀麗な顔。

艶やかに背のあたりまで伸びた髪はしっとりとした光沢のある深緑の色。

太く、それでいて綺麗な曲線を描く眉。

優しい光をたたえ、満月を溶かしたようにひっそりと据えられている黄金の左目。

長い前髪によってしずかに隠された朱色の右目。

女を食らう為につくれたような艶かしい唇と、そこに湛えられた甘い微笑。

 

その蜃気楼のような美しさに圧倒されつつ、佐脇は言葉を発した。

 

「あ……あおさ……ん?」

「よく眠っていたようだねぇ……」

 

にっかり青江は言った。眼前で甘い微笑みを湛える彼の声は、舌や喉ではなく胸の奥から子宮へダイレクトに囁きかけてくるようだった。

 

「あおさん……」

 

佐脇は呟いた。それから夢と現が混乱した夜の海へ沈むように、おぼろ気に微笑んだ。やわらかな吐息が、寂しげに音をかなでて、溶けていく。

 

「あおさん、あおさん……」

 

佐脇は息をするように自然な動作で、白くほっそりとした腕を、青江の首に絡ませた。星空をまどろみながら旅する幼子のような顔をして、彼を仰ぎ見る。

 

「おやおや、君はまだ夢の中にいるのかな?」

 

青江は深い深いため息を漏らして、しっかりと視線を交錯させる。すると佐脇の顔が、いやいやをするように動き、悩ましい声を発した。愛くるしい瞳はしっとりと潤んでいる。

 

「わからないっ……」

「やれやれ、困ったお嬢さんだねぇ。じゃ、此処がどこだか分かるかい?」

「……ここ?」

 

佐脇はぼんやりと青江を見つめる。そうしているうちに、眠りにつくまで自分がどんな経験をしていたか、記憶がフラッシュバックを起こした。佐脇は硬直した。何もかもが一度に襲いかかってくるような感覚。そのイメージの奔流に、心と体は飲み込まれていく。

 

青江の煙草の香り。

青江の元主、新城について。

彼らの関係、そして青江の性癖について。

父親を呼んで、青江と口論をし、拒絶され……

それから、それから、それから……。

 

「あっ……」

 

佐脇は猫のように目を大きく見開いた。ぷっくりと膨らんだ唇を痙攣させ、すぐに青江から体を離した。心臓がズキズキと痛みを発している。その原因について考えようとした矢先、ようやく彼女は青江の真意に気がついた。

 

「……私の部屋」

「そうそう、やっと気づいたみたいだねぇ」

「どうして、どうしてあおさんが……あっ……」

 

佐脇は呆けた声を上げた。失われていた思考が、泉のように湧き上がってくる。それはゆるやかに、しかし確実に一つの答えを導き出していく。その漠然としたイメージを言葉として紡いで、組み立てる。舌と喉を用いて吐き出すのに、いくらかの時間が必要になった。

 

「……全部、何もかも、知ってしまったのね」

 

佐脇は体を起き上がらせ、ちょこんと体育座ずわりのようなポーズをとる。ふっくらと発達した乳房がたわみながら、太股に密着する。それから寂しげに目を伏せて、枕元を見つめた。そこには宝物であり、愛玩物でもあるぬいぐるみが、眠るように横たわっている。

 

「そのつもりで此処に来たんだよ」

 

青江は寝台に腰をおろした。ぬいぐるみを抱き上げ、意味もなく撫でる。その感触を楽しみながら、佐脇の言葉を待った。

 

「……騙すつもりじゃなかったのよ。でも、とても話せることじゃないから」

 

佐脇は子守唄でも口ずさむようにポツリと呟いた。おどろくほど優しい声、その深みある温もりをいつまでも抱きしめてしまいたくなる。そのまま息を引き取るように、佐脇水花という甘美な夢の中でまどろんでいたい。そんな狂った熱情を抱きながら、青江はぬいぐるみを抱きしめ、彼女の言葉に耳を傾けた。

 

「……お母さんに何度も言われたわ、気持ち悪いって。でも私にとっては……宝物で……だから……ガラクタなんかじゃないの……宝物なの。みんな……あおさんも……石切丸さんも……山姥切さんも……長谷部さんも……前田くんも……私にとっては大切な宝物なのよ……お願い……それだけは分かって……」

「分かってるよ」

 

青江は頷いた。ぬいぐるみを胸に抱いたまま、佐脇の異常極まりない想いに応える。痛々しいほどの後悔の念を抱きながら、彼はさらに言葉を付け加えた。

 

「君の想いも、愛情も、そして優しさも、僕らは分かっているよ。本当に、感謝しているんだ。主に捨てられた刀、主を失った刀……存在価値を失った僕らに、君はもう一度、価値を与えてくれたんだから」

 

それは真実だった。否、確信していた。そうだよ、青江は慈しむように微笑を浮かべた。人には無条件で信じられる何かが必要なんだ。水花にとってそれは僕ら。君のお父さんですらない。そう、僕らだけなんだ。例えそれが慰みであったとしても、何かの代替えであったとしても、関係ない。

 

ぬいぐるみを置いた。そこでようやく、佐脇の視線に気づいた。愛しむようでもあり、射るようでもあった。少なくともこれは良い面だと思った。青江はしっかりと見つめ、ややあって頷いた。

 

「僕らの主になってくれてありがとう」

「違うわ……!」

 

佐脇は声を荒らげた。季節外れの春雷のように、弱々しさと痛々しさを宿した声だった。懸命に首を横に振る。彼女の顔は哀れなほど青ざめていた。

 

「私、わたし、あおさんに……あなたたちに感謝されるようなこと何もしてないわ!」

「僕らの主になってくれたじゃないか」

「主らしいこと何もしてないもの!」

「……ああ、だから“主”とは呼ばせてもらえなかったんだねぇ」

「だって、だって……私、主らしくないもの、審神者らしくないもの……刀の顕現もせず、戦いもせず、あおさんを、みんなを、自分を慰める為だけに本丸に閉じ込めているのよ……」

「君と一緒にいれて僕は幸せだよ」

「じゃあっ、じゃあどうして、新城さんと……!」

 

佐脇は黙った。なにか、口にはだしてならない忌まわしい呪文を唱えてしまったような気がした。ほんの一瞬、青江の表情が曇った。同時に奇妙な微笑を浮かべていることにも気がついた。その意味について考えを巡らせながら、彼女は胸の底から押し出したような声で言った。

 

「…………どうして不倫していたの?」

 

沈黙。生物の奏でる音はなく、ただひそやかに雨音だけが部屋を支配する。その美しい音の戦慄が、二人のあいだを行き交った。何かに導かれるように青江の手が伸び、すっと引っ込められた。柳眉を下がらせ、小さな声で言った。

 

「僕は彼女にとって……新城にとって利用価値のある道具だったのさ。僕も同じだった。この意味を知らず、知ろうともしなかった僕は……やっぱりただの不良品だね」

 

青江の顔は相変わらずだった。しかし目に、懸命に感情をこめようと努力しているのが佐脇には分かった。膝に置かれていた手が拳を強く握っている。

 

「ごめんね……」

 

青江はどこまでも暗く切ない声で言った。佐脇は四つん這いの姿勢で彼に近寄り、そっと手を抑えた。躊躇いの欠片もない、本能的な動作だった。

 

「やめて、謝らないで……あおさんは悪くないの……悪くないの……昔の話なのに……どうにも出来ないことなのに……」

「関係ないよ。過去は現在に繋がっているのだからねぇ……」

「……あおさん、私、私ね……」

「うん、何だい?」

「あの……」

 

男の愛を受け止める為にあるような唇が、悩ましげに震える。彼女の声に含まれた迷いに気づいた青江は、ほんの一瞬だけ微笑んで、囁くように呟いた。

 

「恥ずかしがらず言っておくれよ」

「………音楽をかけて欲しいの」

「音楽?」

「そう」

佐脇はコクリと頷いた。幼女のようにあどけない顔をして、ほっそりとした指で窓を指差した。青江はそちらに視線を向ける。黄金にきらめく蓄音器が置かれていた。白銀にひかる真珠をあしらっており、贅の尽くした逸品だった。

 

「聞きたいの?」

「ええ」

 

青江はそれ以上訊ねなかった。話しているうちに、佐脇は何かを思い出しているような、どこも見てない顔になっていたからだ。

 

きっと父親のことだ、青江は直感した。だとしたらいつ頃だろう、子供の頃か、それとももっと昔の頃か。彼は疑問を抱きながら、愛する女の暗い部分にあるなにかをどうにか紛らわせようと行動した。

 

さっと立ち上り、蓄音器に触れる。指を伝って感じる冷たさの意味を考えながら、音楽をかける。しばらくするとラッパ型のホーンから、清らかな歌声が流れてきた。青江は寝台に座って、何も言わず耳を傾ける。

 

言葉こそ上手く聞き取れないが、伝統的な西洋音楽だった。綺麗な歌だと思った。まるで満ちては欠ける月のように、神秘的で美しい。

 

「きれいな歌でしょう?」

 

佐脇は微笑んだ。美しく可憐な乙女が浮かべるこれ以上ないほどの微笑み。これは虚無そのものだった。まだ年端もいかない乙女であるはずなのに、もう何百年も生きているようにすら見えた。

 

「何の歌?」

「アヴェマリア」

「あべまりあ?」

「ア、ヴェ、マ、リ、ア」

 

佐脇は昔の恋人の名前を口にするように、ゆっくりと言った。唇をわずかに湿らせる。相変わらず暗い微笑を浮かべている。

 

「意味はね、おめでとうマリア」

「それ誰?」

「キリスト教は知ってる?西洋で栄えてる宗教なんだけれど……その教祖イエスのお母さんがマリア、聖母マリア。彼女への祈祷文を聖歌にしたものが、アヴェマリア」

「ああ、キリシタンの歌か。好きなの?」

「……どうかしら。お父さんは好きよ、この歌も、歌っている女性も」

 

佐脇は咳をするように笑った。笑って、そっと両腕で青江を捕らえ、その身体を後ろから抱き締めた。ふっくらと張りのある乳房が、彼の背中のうえで、大きく波打った。青江は気づいていないような顔をして、しかしはっきりと確信をもって、その身を預けた。これまで経験したものとは違う熱さを感じながら、掠れた声で訊ねた。

 

「ねえ、この歌の意味を教えてよ」

「歌詞を知りたいなら、蓄音器の傍に……」

「君の声で知りたいな」

「……私歌えないわ」

「歌わなくていいから」

 

佐脇はため息を漏らした。むせてしまうほど甘い吐息が流れ散る。その香りで鼻腔を満たしながら、青江は意識して身体を押しつけた。佐脇はゆっくりと息を吸い込み、囁くように言った。

 

「……優しい乙女マリアよ。どうか、この娘の願いを聞いてください。この険しくそそり立つ岩山から。私の祈りがあなたの元に届きますよう。世の人がどんなに無慈悲であろうとも、朝まで安らかに眠れますよう。ああ、乙女マリアよ。この娘の悩みに目をとめてください。ああ、聖母よ、祈りを捧げる子に耳を傾けてください」

 

青江は眠るように瞼を閉じて、静かに言った。

 

「いい声だねぇ」

 

佐脇はほんのりと頬を赤らめて、吐息を漏らす。先程とは質が違う。この吐息は、熟れた果実の蜜が、じっくりと時間をかけて滴り落ちてくるように淫らで愛らしい。

 

「そういう歌じゃないわ」

「ご懐妊祝いの歌かな?」

「……冗談はやめて。聖母マリアは処女よ」

「ああ、だから聖母なのか」

「……神様の子を宿したから、聖母なの」

「ふーん……」

 

青江は拍子抜けするほどあっさりと呟いた。心地よさげに身をすり寄せながら、喉の奥から呻き声を漏らす。すると佐脇は、意識してのことなのかどうか、彼の耳元でひっそりと呟いた。豊かな乳房がゆっくり振幅する。

 

「……あおさんも神様だったわね」

「んふっ、そうだったねぇ……。といっても、最下層だけど」

「それでも神様だわ」

「……じゃあ君が僕の子供を産んでくれたら、聖母になるね?」

「え?」

「神様の子を授かったから、聖母なんだろ?」

「マリアは処女で受胎したのよ」

「おや、さっきと言ってる事が違うねぇ」

「……何言ってるの?」

「分からない?」

「分からないわ、ちっとも」

「それじゃ仕方がないねぇ……」

 

青江は起き上がった。ありし日の麗しい過去を追い求めるように、振り返る。唐突そのものの行為に、佐脇は思わず身をすくませた。しかしわが身を庇おうとしなかったのは、青江がそれ以上何もしようとしなかったからだ。

 

……否、ちがう。

 

今、目の前にいるにっかり青江は、見たこともない表情をしていた。暗闇の中でさえ、それがハッキリと分かる。彼の微笑は、涙のようにしっとりと濡れている。それは甘やかで瑞々しい。しかし、ただ艶かしいというわけでもない。なんだろうと佐脇は思った。かつて、それと同じものを身近に味わったような気がした。

 

ふと、青江の相貌に光っては消える不思議なものがある事に気が付いた。女には決して理解できない男の……いや、男よりもさらに複雑な刀剣男士の……説明が出来ない心境のあらわれだった。

 

しばらく二人は、言葉を交わすことなく見つめ合った。

 

美しい歌声、その響きが、夢まぼろしのように部屋をさすらう。聖なる母への祈りは、息吹きのように軽く、それでいて燃え上がる想いを宿らせている。歌声のそこかしこから、 愛する我が子へかける、母性の香りが匂い立つ。

 

その類いなき生の香いを、残りなく味わい尽くすように、青江は告白した。

 

「君の子が欲しい」

 

佐脇は目を見開いた。頭の中が真っ白く溶け落ちるような感覚に陥る。それを埋める為の手段が分からず、ただ、呆然と青江を 見つめていた。体は不自然に軽く、歌声はうつろに響いた。まるで蜃気楼そのものになったような気分だった。全てが曖昧で不透明。

 

どこか、夢のように遠い場所から、雨音が聞こえた。それは黙々とささやかに、自然の理を語っている。佐脇は聞き耳をたてて、後を追った。わが身に降りかかる現象、その原因を追求するべく、一心不乱に思考を巡らせた。

 

そうしているうちに雨音は遠ざかり、気が付いた時には寝台から離れていた。

 

「ねぇ、どうして逃げるの?」

 

青江は訊ねた。佐脇を逃すまいと立ちあがり、ゆっくりとその距離を縮めようとする。思わず、佐脇は悲鳴を上げた。壊れかけた鈴のような声だった。

 

「どうしてっ、どうしてそうなるのよっ!」

「何がだい?」

「どうして急にっ、そんな話が出てくるのよっ!」

「そんなに不自然だった?」

「不自然どころの話じゃないわっ、こんなの変よっ!おかいしわっ!いきなり子供の話なんてっ……あおさんっ、あおさんはっ……」

「……にっかり青江らしくない?」

「そ、それは……」

 

不意を衝かれたかたちになった佐脇は混乱した。青江の真意、その全てを受け止める事が出来ず、うっと息を詰まらせる。彼女の瞳には愛情を通り越したものが浮かんでいた。

 

「そう、僕はにっかり青江らしくないよ」

 

青江は頷いた。哀しげな微笑を浮かべ、柳眉を下げる。それから佐脇の背中へ守るように腕をのばし、愛情をこめて抱き寄せた

 

「だから君の刀になれた、男になれた。そして君に名前をもらった。“あおさん”、これが僕だ。にっかり青江らしくない、僕だけの名前だ。もうそれ以外になる気はないよ。理由?もっと君色に染め上げて欲しいからさ。これだけ言えば分かるだろう?」

 

佐脇は何も言わなかった。否、言えなかった。胸が高鳴ってくる。あおさん、と声を出さす呟いた。私のあおさん、私だけのあおさん。私の可愛いあおさん。青江への、どうにもならないほどの愛しさがこみあげてきた。

 

たとえ完璧な刀でなくても、完全な男でなくても、青江が、雄という他ないものを有していることに気づくのは悦び以外の何物でもなかった。

 

「あおさん……」

 

佐脇は青江の胸に自分から顔を寄せていった。何もかもが抜け落ちていくような感覚を覚えながら、涙を流した。ややあって、彼女は掠れた声で言った。

 

「……どうして子供が欲しいの?」

「君からは命の香りがするから」

「私は生き物だもの」

「……君のお父さん、きっと女に痛い目に合わされたんだねぇ。時たま、女を警戒するような物言いをしていたからさ」

「お父さんはそういう人なの。きっと私のことも……」

「勿体ないことするねぇ……。女っていいものなのに」

「……そうかしら」

「そうだよ」

 

青江は断定した。愛しくてならない女を抱きしめながら、髪を撫でる。絹糸のようになめらかな感触、その心地よさに酔いしれながら、吐息を漏らした。

 

「命を殺め続けた僕だから分かる。女は生と豊穣を司り、男は死と破壊を司る。僕ら刀は男と同類だ。ひょっとしたら、その具現化かもしれない。だからたまらなく女に……君に、君に惹かれてしまう。君は女の香り、命の香りそのものだ」

「だから子供が欲しいの?」

「うん」

「私じゃないとダメなの?」

「うん」

「………女はそんなに、綺麗な生き物じゃないわ」

 

佐脇は否定した。夢から覚めた子供のように悲しげな声だった。青江の体から離れようとする。しかしそれは出来そうになかった。青江が腰へまわしていた両腕に力を込めたからだ。まるで、子兎か何かを絶対に逃すまいとしている獣そのものだった。やわらかく、同時にしっかりと硬さのある彼の手の感触に、痺れるようなものを覚えた。

 

「……そんなに強くしないで」

「君が逃げようとするからだよ」

「すごく痛いわ」

「痛いのは嫌い?」

「誰だって好きじゃないでしょう?」

「んふっ、どうかなぁ。そういう趣味の人もいるんだよ?」

「新城さんのことね」

「……凄いな、どうして分かったんだい?」

「首を絞められるのが好きなんでしょう?」

「彼女が言ってたのかい?」

「……言ってないわ。でもすぐに分かった」

 

澄んだ歌声が鐘の音のように、雨音にもかき消されることなく響いてくる。その声はゆるやかに神聖な光を紡ぐ。光の名を探し求めるように、佐脇は青江を仰ぎ見た。まるで初めて口紅をつけた少女のように、デタラメな妖艶さを含ませて訊ねた。

 

「それであおさんは好きになったのね?」

「今は好きじゃないよ」

「……本当に?」

「本当だよ。今なら信じてくれるだろう?」

「ええ……信じるわ、信じてあげてもいい」

「何だか怖い言い方だねぇ」

「そうかしら。……ねぇ、苦しいわ。一度離して?」

青江は頷いた。頷いて、胸の中でつぶれてしまいそうなほど華奢な佐脇を、やさしく解放した。愛おしい女の残り香は、そよ風のようにしみじみと漂っている。きっとこれは、儚い恋の味そのものだろうと思った。忘れたくても忘れられない、恋の酷さ。そうであるからこそ尊く、掛け替えのないもの。

 

その意味について考えを巡らせていると、佐脇が遮るように呟いた。

 

「……私たち女はマリアじゃないわ。新城さんも私も、ただの女なんだから」

 

佐脇の表情からは、愛くるしいイメージが消え失せていた。異教徒によって破壊されたマリア像のように、どこまでも悲惨なものを露にしながら、青江だけを見つめている。

 

「……あおさんの子供をこの身に宿しても、私は聖母にはなれない。ただの生々しい女のまま、母親になるだけ。……いいえ、母親にだってなれないかも。私のお母さんがそうだもの」

「君のお母さんには会っていないねぇ。お父さんも、特に何も言ってなかった」

「会わなくて良かったのよ」

「どうして?」

「……お母さんもただの女だから。今も、そしてこれからも」

「ちょっと意味が分からないなぁ」

「分からないなら教えてあげる」

 

佐脇は笑った。どれだけ悲惨な壊れ方をしても、神々しさを失わないマリア像のように、歪な美しさを宿していた。ほんの一瞬だけ瞼を閉じて、歩き出す。聖なる歌声を響かせる蓄音器の前まで来て、彼女は祈りを捧げるようにほっそりした指を胸の前で組み合わせた。

 

「……これ、お父さんの愛人さんが歌ってるの」

「愛人?」

「ええ、マリアのように美しい歌姫なの。……この部屋に写真あったかしら」

「お父さんが言ったのかい?」

「ちがうわ。お父さんは内緒にしてるけど、私この目で見たのよ」

 

佐脇は言った。どこか、夢のように遠い場所を見据えながら、一つの物語を紡ぎだす。年端もいかない乙女の、儚くも美しい心の奥底で、それは悲しみの光を灯す。青江はただ一人の読者として、彼女の物語に聞き入った。

 

「とても綺麗な、美しい花園だったわ。まるで天国のようだった。そこに白バラの花畑があって、よくお父さんが私を連れてってくれたわ。私、そこがとても大好きだったの。悲しいことがあった時は必ずそこに行った。あの日も、あの日もそうだったのよ」

 

佐脇の涙が白銀の光をまとって、儚げに煌めいた。美しき涙、その優美な魔力に吸い寄せれながら、青江はそっと訊ねた。

 

「あの日?」

「そう、あの日。何もかも悲しくなって、辛くなって、いつものように花園へ行ったの。白バラの花畑から美しい歌声が聞こえた。お父さんの好きなアヴェマリア。だから、だからなの。見に行ってしまった。そこにはお父さんがいたの。声は掛けられなかったわ。だって、だって知らない女の人と抱き合ってたから。とても愛おしいそうに……」

 

佐脇は顔を覆って泣き始めた。彼女の泣き声は、ひび割れた鏡のように哀れで美しい。悲しみに満ちあふれながら、どこか、冷えきったものを感じた。その源泉は分からない。妥協、諦め、悟り……そんな言葉では説明のつかない複雑な感情そのものだった。

 

「あんなお父さん見たことなかった。だからすぐに分かった。彼女こそお父さんのマリア。お母さんじゃない、私でもない。突然、ありとあらゆるものが怖くなった。怖くて、怖くて怖くて怖くて……!私、すぐに逃げ出したの……どうしたらいいのかもう分からなかった……それで、それで……」

「それで君はどうしたの?」

「……後ですぐに分かったの。彼女は名の知れた歌姫で、お父さんの初恋の人で、そして愛人なんですって。結婚は望めなかったみたい。育ちが違いすぎるからって。まるでドラマみたいな話。本当に、本当に……」

 

佐脇は背中を向けた。無防備で、そして悲しいほどに頼りない後ろ姿だった。泣いているせいで両肩が縮みあがっている。向かい合っていた時よりも深く顔を伏せたせいで、薄桃色に紅潮したうなじが見えた。

 

そういうことか。青江は心の中で呟いた。自分が愛情に基づいて生まれたわけじゃないと、信じてしまったんだね。計算の末に生まれただけだと、思ってしまったんだね。命を絶とうとしたのもこれが理由か。可哀想な水花、だからこそ可愛い水花。

 

「……お母さんは知っているんだね」

 

青江は頷いた。頷いて、佐脇へと近づく。親指と小指を目いっぱい広げれば届きそうなぐらい華奢な両肩に、そっと手を置いた。すると彼女の全身が小さく一回震えた。

 

「何もかも知っているのに、知らないふりをしているの。きっとそれがお母さんの処世術なんだわ。だから、だからなの。お母さんは母親でいるより、妻であり続けること、女でいることを望んでる」

「……君という娘がいるのにね」

「妻としての義務を果たしただけよ。母親になる気なんて、きっと最初からなかったんだわ。お父さんも、お父さんもそうなのよ」

「それはどうかな」

「そうに決まってるわ!」

 

佐脇は叫んだ。今にも裏返りそうな声だった。体は小さくゆらぐロウソクのように、ゆらゆらと揺れ動いている。青江はしっかりと彼女の両肩を掴んだ。

 

「ずっと信じていたの!だから頑張ってきたの!出来る限り努力してきたの!お父さんは、お父さんだけは違うと信じていたから!でも違ったの!でも、お父さんが好きだから、今でも好きだから、だから、私、だから……」

 

佐脇は振り返った。愛らしい顔面は蒼白だった。やわらかな唇から血の気が失せている。喉奥から嗚咽によく似たものが何度も漏れそうになり、まるで何かに抗うように深呼吸を繰り返す。しかし長くは続かなかった。口を開き、息を吸い込みかけて……肺が、吸い込むより吐き出したがっていることにようやく気づいた。

 

……歌声が金色のしずくのように、きらきらと零れ落ちていく。

 

「……信じられないでしょう?こんな、こんなに綺麗な歌なのに、マリアを、聖母マリアを歌う彼女は、強かに生きているのよ。そんなの微塵も感じないでしょう?そういう演技が簡単に出来てしまうの……」

「……生きていく為に必要なのかもしれないよ」

「……彼女もお母さんも、きっと新城さんも、生きていく為にそうしてるのよ。浅ましい行為に身を染めながら、知らないふりをしているの、気づかないふりをするの。そうしなければ生きていけないのよ。それは私も同じ。私たちはマリアじゃないもの。清らかなまま生きていくことなんて出来ない……!」

 

佐脇は、もうこれ以上立っていることができないというようにその場にしゃがみこんだ。 腕が、肩がふるふると震えている。青江もしゃがみこんで、彼女の肩に両手を置き、少しだけ前屈まえかがみになった。ゆっくりと覗き込む。大粒の涙が、雨降りのような音を立てて床の上に落ちていく。彼は顔を寄せ、その涙を吸った。甘悲しい味が口の中に広がる。

 

「……あおさんは、本当にいいの?」

 

佐脇は涙声で訊ねた。何かに耐えられないとでもいうように、うつむく。青江は彼女の顎をつかみ、無理矢理上向かせた。

 

「何がだい?」

「神様なのに、マリアになんか絶対になれない女の子供が欲しいの?」

「欲しいね、とても」

「こんなに生々しいのに」

「そんなこと言ったら、僕なんか血生臭い刀だよ。それに、生々しさは命の香りだ。そんなに悪いものじゃない」

「香りなんて上辺だわ。きっとすぐに分かるはずよ」

「もう分かってるよ」

「なら、なおさら」

 

青江は立ち上がった。立ち上がって、佐脇を抱き抱えるように抱え込んだ。泣きながらも、いや、泣いているからこそなお強く鼻腔を刺激する彼女の甘やかな香りに酔いしれる。その類いない香りは、にっかり青江という付喪神を捉えてはなさない力があった。

 

「何をするの、お父さんがきっと」

「大丈夫、話はつけてある。だから帰ろう」

「どうして、薄汚れた生き物だと知りながら、どうしてあおさんは私を」

「君ほど綺麗な女はいないよ」

「やめて、言わないで。あおさんはにっかり青江なんだから。そんなあおさんをこれ以上汚したくないの。分かって」

「僕がにっかり青江らしくないのは、君が一番よく分かってるだろ?」

「いつか後悔するわ」

「さあ、それはどうかな。もうしているかもしれない。でも僕は君を選ぶよ」

「うそ」

「嘘じゃない。僕を信じろ、水花」

 

佐脇の瞳が一瞬遠くを見つめる。青江はそれを永遠のように感じながら、そっと彼女の額に口付けを与えた。

 

それが合図だった。全てが崩れ、壊れていく。佐脇は安堵したように声を上げて泣きはじめた。涙を拭う必要はなかった。彼女は青江のたくましい胸に、顔を押しつけてきた。

 

「あおさん、あおさん、あおさん……」

 

青江は答えなかった。彼は佐脇のまとったネグリジェをはぎ取った。なよやかな肢体を飾っていた首飾りなどを外し、床に投げ捨てた。

 

佐脇水花の裸体は、生まれて間もない肉体のように美しくも痛々しい。ふっくらと張りのある乳房は憂わしげに、ふるふると震えている。小さな乳首や、ほっそりとした腰は、春先のにわか雨のように、きらきらと光っては消える。彼女のそんな部分も愛おしくてならなかった。

 

「ここにあるものは全部捨てよう。それとも、何か持っていきたいものでもある?」

「……ないわ。この身も捨ててしまいたいくらい」

「それじゃ僕が困るよ」

 

青江は笑った。幸福感に満ちた笑い声だった。それからすぐに白装束のマントで、佐脇の体をやさしく包み込んだ。くったりと身を寄せてくる彼女を見つめ、青江は感動に近い気分を抱いた。

 

佐脇は美しかった。この世のものとは思われないほどに美しい花嫁だった。まるで神が美しくこしらえた宝石のようだった。どんな宝石よりもきらびやかで、神々しい。彼女の姿は神秘的に、あらゆる理をはるかに越えて、清らかに輝いている。これが、これこそが、生の情熱なのだと青江は思った。

 

「さあ、帰ろう」

 

青江はさっと足を踏み出し、扉を開けた。澄んだ朝日が差し込んで、光の筋ができ上がる。その光は微笑みながら手を差しのべてきた。

 

「……本当にばかなあおさん」

 

佐脇は優しい声で呟いた。ほっそりとした指が慈しむように、青江の頬を撫でる。甘いため息とともに付け加える。

 

「でもかわいい。好きよ、あおさん」

「んふっ、うれしいねぇ。……僕もだよ」

「ありがとう、あおさん」

「……それは僕の台詞だよ」

「そうかしら」

「そうだよ」

 

彼らはたっぷりと見つめ合ったあとで、笑い合う。子供の戯れのように、どこまでも無邪気に笑った。雨は上がっていた。外界はすっかり洗い清められ、全てから解放されてた。

 

……そうして、彼らは光のあたたかい世界へと帰っていった。

~エピローグ~
​●いつかどこかの未来で 1

清風流れるままに境内を吹き抜けていく。その類いなき風の音が、ゆるやかに時を紡いだ。陽光は色あざやかに鳥居を照らし、古い社が真珠のように、きらきらと光って消える。

 

祈りの果てに向かって、鈴の緒がそっと身震いした。その音は空中より湧わき出しながら、境内へと流れ入る。

 

にっかり青江はうっすらと目を開けた。そこには御神木があった。千年の月日を重ねて、ひっそりと語らず、しみじみと佇んでいる。しめ縄は仄かに湿っている。至るところにこけむしを生やして、さながら幻のように、うつつな朝を漂う。

 

美しい雰囲気だ。神社に設けられたベンチの上で、彼は美貌をかすかにしかめる。朝日が眩しかった。時は八時前後。まだ一日は始まったばかりだ。ほんのりと冷たい風が体へと染み込み、背筋が震えた。細身だが適度に鍛えられた肉体を、右隣にある暖かいものへとすりよせた。それからマントとして用いている白装束をひきあげて、その柔らかな肢体にかぶせる。

 

……かすかな吐息が白装束の中から生じた。青江はぴくりとし、ちらりと右隣を覗き見る。

 

佐脇水花は目を覚ましていなかった。その小さな頭は、青江の肩にもたれかかって、風の震動に合わせてやさしく揺れている。彼は微笑んだ。そして暖かさを得るため、さらに佐脇へと身を寄せる。甘く、かぐわしい香りで肺を満たして、朝にまどろむ。

 

「……あら懐かしいわねぇ」

 

女のころころとした笑い声を耳にして、青江は顔をあげた。新城だった。うぐいす色のゆったりとしたワンピースに身を包んで、艶かしい色気を惜しげもなく発散している。

 

「ここは禁煙だよ」

 

青江は呟いた。見事に丸みを帯びた佐脇の肢体をそっと抱きよせ、目を伏せる。彼女の頭をやさしく撫でながら、付け加えるように言った。

 

「それに僕はもう煙草はやめたんだ。ライターなんて持ってないよ」

「ま、相変わらず愛想のないこと」

 

苦笑いを浮かべつつ、新城は彼らの傍らへと移動した。風によって乱れた髪が顔にかかる。すぐに髪をかきあげて、意味ありげに頬笑む。厚ぼったい唇が悩ましげに震えた。

 

「私も煙草やめたの」

「どうして?」

「子供が出来たの。今、三ヶ月目」

「旦那さんの?」

「やだ、当たり前でしょ?」

 

妖艶とした新城の顔には、複雑な微笑が刻まれていた。まるで思春期を迎えた息子の問いに困り果てた母親のようだった。実際、そういう意味も含まれているのだろう。彼女の瞳に宿るそれは、仄暗い母性がにじみ出ていた。

 

「今日は安産祈願をしに来たのよ。主人もいるわ。ねえ、会ってみる?」

「遠慮しとくよ。それに彼だって、元不倫相手になんて会いたくないだろ」

 

そう断定した青江は、もう用はないだろ、とでも言いたげにため息を漏らした。すると時を見計らったように、神社の鈴が鳴り響いた。やさしい鈴の音が彼らの傍に歩み寄って、ひっそりと囁く。華奢な佐脇の身体がさら縮こまった。苦しげに呻いて、美貌を曇らせる。それから何かを求めるように、顔を青江の胸へと埋めた。

 

新城は苦笑を浮かべた。漆黒の瞳は青江の顔に据えられていたが、やがてゆっくりと佐脇へと向けられた。その時だけは微かに柔らかい、切なげとも言える光が浮かんだ。

 

「結局、その子を選んだわけね」

 

新城は心の内にあるものを吐き出した。そこでようやく、青江は顔をあげた。ほんの一瞬、彼らは立場を忘れた視線を交わらせた。

 

鈴の音が鳴ると、人々の笑い声がこだまする。それらは兄弟のように絡み合って、ゆったりと空中を漂う。

 

……最初に口を開いたのは新城だった。

 

「刀のくせに、男に成り下がっちゃうのね。せっかく女から解放してあげたのに」

 

新城は控えめに罵倒した。声がわずかに震えている。顔色は悪いものの、彼女はただ青江を見つめ続けている。酷薄な息子に対して、何かしらの美点を見つけだし、そこだけを信じつづける母親のようだった。

 

青江の喉奥から艶かしい音が漏れた。笑ったのだろう。しばらく、魅入られたように眠る佐脇の横顔を見つめていた。ため息を漏らす。名残惜しむように視線をそらし、新城を見た。慈悲深い笑みとともに彼は言った。

 

「もうすぐお父さんになるよ」

「あら」

 

新城は呟いた。自分でも驚くほど間の抜けた声だった。なめらかな手で口を隠す。眉がぴくぴくと痙攣していた。青江は楽しむように視線を巡らせたあと、つけくわえる。

 

「今日はね、安産祈願に来たんだ」

「それはおめでとう。あなたのお子さんなの?」

「やだな当たり前だろ。ねぇ、他に言うことはないのかい?」

「……いつから女の言葉を待つような意気地なしになったの、あなた」

「佐脇ちゃんに出逢ってからかな、おそらく」

 

青江は音もなく動くと、もう一度佐脇の頭を撫でた。指の間からサラサラとこぼれ落ちていくような髪の感触を楽しみながら、目を細める。満月を溶かしたような瞳が、きらりと光った。深緑の髪が風になびく。

 

「これはこれで上出来だろう?」

「……あなた、やっぱりにっかり青江らしくないわね」

「そうだろうねぇ。でも水花ちゃんはそこを気に入ってくれてるからさ、僕としては満足かな」

「そうしてあなたは、刀とも男ともつかない何かへと変わっていくのね」

「それはどうだろうねぇ」

 

青江は言葉を濁した。否定に近い響きを含ませて、新城を見つめる。先ほどまでとは全く異なる、迷いのない表情を浮かべていた。

 

「……水花は僕の鞘だ。僕という不完全な刀を納める、唯一にして絶対の鞘」

「すっかり彼女色に染まったのね」

「不完全とはいえ、僕は脇差刀だからねぇ」

「お熱いこと」

「そりゃどうも」

「ねぇ訊いて良いかしら」

「何だい?」

「佐脇ちゃんだったり、水花ちゃんだったり、水花だったりするのはどうして?」

「どれも可愛いから口にしたくなるんだ」

「あらまぁ」

 

新城はほとほと呆れ果てた顔で、ため息をついた。それから、んっ、と子猫のように背を伸ばした。意味もなく深呼吸をする。ほんの一瞬、探るような目になった。刀剣男士をまとめる審神者にふさわしい、鋭利な光が浮かんだ。しかしそれは幻のようにすぐに消え失せ、あとには虚しさだけが残った。

 

「私たち、もう会うこともなさそうね」

「そうだね」

「もう一つだけ訊いていいかしら」

「何かな?」

「どうして私と同じ煙草を吸ってたの?」

「……何で知ってるのかな?」

「そりゃあなたを顕現したのは私だもの。お見通しよ」

 

青江は痙攣のような微笑を浮かべた。やわらかみと淫らさを同時に感じさせる唇が歪んだ。何かを貪るように、佐脇へさらに身を寄せた。白装束の中で心地よさげな呻きが響く。互いの想いが触れ合い、溶け合っていくような気がした。甘悲しいざわめきが唐突に胸をざわつかせる。彼は囁くように呟いた。

 

「……君が旦那さんにした事と同じだよ」

「どういう意味かしら?」

「苦しみを与えたくなったのさ。愛しているからこそ、ね」

「……酷いことしたわね、あなたも私も。いえ、愚かというべきかしら」

「そうだね」

 

澄みわたる青空に、鈴の音が遠く近く響き合うのが聞えて来た。 青江はそっと静かに耳を澄ませる。佐脇の甘やかな吐息と混ざりあって、それはひどく淫らなものに変化していた。

 

「……もうそろそろ行くわ。主人も待ってるから」

 

新城はポツリと言った。髪は風によって、さやさやと揺れている。甘にがい女の香りがふんわりと広がる。その類いもなく生々しい匂いに、青江はむせかえりそうになりながら、彼女の背中を眺めていた。陽光の明るさの中で白くきらめくうなじが、得たいの知れない生き物のように思えた。

 

「それにしても暑いわね」

 

くすんだ過去を捨て去るように、新城が吐き捨てた。青江は空を見上げた。抜けるような空の青さに、酔いしれてしまいそうになる。彼はまどろむように目を閉じた。潮騒のようにか細い佐脇の寝息が、風に乗ってやってくる。その美しさに吸い込まれながら、優しく答えた。

 

「梅雨はもう終わりだよ。もうすぐ夏だ」

​●いつかどこかの未来で 2

空は、海のような深みある色に染まり、青い光の中でひっそりと揺らめいていた。美しい夏、その奇跡がひまわり畑を潤していく。そよ風がそっと身震いする。ひまわりの花々はふわりと戯れながら、世界を金色に包み込む。

 

そうしてその上には、いくつもの小さな白い蝶が群がっていた。それらは星のように煌めきながら、自由に旋回している。

 

ひまわり畑の中に、ほぼ真っ直ぐ走る道があった。土の道で、あちこちに葉が散らばっており、そして少しぼこぼこだった。時おり、折れたひまわりの茎が邪魔をするように横切っている。

 

「……変な道だなぁ」

 

少年は顔をあげた。愛くるしい、八歳ぐらいの少年だった。白のシャツ姿で、サンダルで、つばの広い麦わら帽子をかぶっている。 べっとりと濡れた髪は黒色で、まん丸な瞳は金色。太陽によって、マシュマロのように白い肌が、ほんのりと火照っていた。

 

走り抜けることはせず、道に点在する障害物を避けたり乗り越えたりして、少年はひまわり畑を歩いた。道は不自然なぐらい真っ直ぐで、進む先は、まるでひまわりの花々が踊るように道をあけていた。

 

強い風が吹いて、ひまわり畑がしなやかに揺れた。ひまわりの葉が舞って、ほんの一瞬、少年の麦わら帽子が宙に浮く。慌てて両手で抑えた。彼の頭上では、ふっくらとした雲が静かに青空を走っていた。白い蝶は流されるように飛び、ひまわりは風の中で舞い踊っている。ほんの少しだけ怖くなって、後退りしてしまう。心臓が石のように強ばった。

 

「……清くん」

 

鈴の音が聞こえた。否、鈴の音よりもさらに涼しげな声が耳をくすぐった。不自然な声だった。乙女のように細くて綺麗な響きでありながら、その声はとても深みのある声に聞こえた。

 

声の主が誰か分かった瞬間、心の中の恐怖がぱりんと破裂した。少年、清兼の頬が緩み、ほんのりと紅くなる。泉のように湧き出る想いを吐き出すように、名前を呼んだ。

 

「母さん……!」

 

果てしなく続く道の先に、幻のように佇む美しい母親がいた。日傘を差して、真っ白いワンピースに身を包んだ彼女は、微笑みを浮かべて、彼だけを見つめていた。

 

「こんな所にいたのね、清くん」

 

母親は囁くように言った。美しい、どこまでも儚くて美しい母親だった。すんなりとしなやかに伸びた手足。ワンピースの胸をやわらかく盛り上らせる二つの乳房。ふんわりと優しげに張っていながら、形良い曲線をみせている腰。

 

その全てが、内なる光によってほんのりと輝く乳白色の肌に包まれている。もちろん、他の全ても美しかった。

 

乙女のように愛くるしい顔立ちでありながら、二十代にも三十代にも見える美しさをたたえている。頬の下付近で、二つにまとめられた艶やかな黒髪が、風によってサラサラと揺れてなびいている。ふっくらとした花弁のような唇が、悩ましげに震えた。

 

「もう、勝手にどこかへ行っちゃうんだから。ずっと探していたのよ。お父さんも心配してるわ。ねえ、帰りましょう?」

 

母親は手を差しのべた。ほっそりとした指が蝶のように、ひらひらと揺れ動いている。その奇妙な美しさに魅せられるように、清兼は駆け寄った。駆け寄って、母親の抱擁を求める。

 

すると彼女はもう一度笑みを浮かべ、そっと両腕で息子を捕らえ、自分の全てにそっと、しかしはっきりとした確信をもって誘った。

 

「母さん……」

 

清兼はすがるように抱きついた。母親の吐息、その甘やかな香りが布地を通り抜け、肌を直接熱くする。心臓が高鳴る。母親への、どうにもならない想いがこみ上げてきた。

 

「……清くんは甘えん坊さんね」

 

母親は優しげに目を伏せる。清兼の小さな体をしっかりと抱きしめ、深呼吸するようにゆるやかに息を吐きながら、ひっそりと呟いた。

 

「一体どっちに似たのかしら、あおさん」