​佐脇ちゃん本丸 短編
​●刀の涙

澄みわたる夜空に、月は溶ける。

 

月あかりは呆気なく消えて、夜の闇がいっそう深くなる。それは深海のように、得たいの知れない暗黒だった。

 

佐脇は深い闇を見つめて、そっと息を殺した。熱っぽく高なる胸を、ゆるやかに静める。

 

鬼神の如く冴えた刃が、闇夜を切り裂いているのが分かった。闇はガラスのような破片となって、細かく飛び散っている。それは刃の光を受けて、砕けた水晶のようにおぼろ気にきらめいた。

 

「―――なんの用かな?」

 

刀の主は問う。

 

艶っぽい声だが、石のように冷たい。その無機質さに、佐脇の心は震える。恐怖ではかった。もっと別の部分からくるもの。どちらかと言えば、恋の類いに近い。けれどそのものではなかった。

 

「あ、あの、私、あおさんが心配で……あなたは戦から帰ったばかりかのに、どうして稽古を」

 

石柱をのみ込んだような姿勢で佐脇は言った。心の深みより湧きでる何かが、香気となって漂う。それは躊躇いつつもおもむろに、刀の主を求める。

 

否、刀そのものというべきだろう。

 

「さあ、どうしてだろうねぇ……。それより君は、帰ったほうがいい。この闇だ。どこで間違って、君を殺めてしまうか分からない」

 

刀-にっかり青江は淡々と応えた。物腰はやわらかく、ひどく落ち着いている。けれどその瞳は、枯れ木のように乾き果てていた。彼は艶かしい色気を影に潜ませ、あられもない本能を剥き出しにしている。それは風のように、色も形もない。しかし目に見えずとも、確かに存在するのだ。

 

「さあ、もう帰ってくれ」

 

どこまでも冷酷な、恋人の愛撫さえはねのけるように、青江は黙り混む。佐脇に背を向けたまま、闇夜に舞い散る木の葉を、一枚一枚、斬っては捨てる。

 

それがまるで、想いを封じるための儀式のように思えて、佐脇の心はかすかな光を灯して、痙攣する。

 

-そう、そういうことなのね-

 

色あせた悲しみを心に秘めて、佐脇は思いを巡らせる。

 

-今のあなたには、人前で素直になる自由がないのね-

 

そうであるならば、青江の誇りを食い荒らさないように、潔く身を引くより他はない。戦を終えたばかりの彼が、あまりにも冷酷な態度を示す理由がわかった気がした。あるいはただ、にっかり青江という刀の生い立ちのせいだろうかとも思った。

 

透明な二粒のしずくが流れ星のように、瞳から流れ落ちた。慈雨のように清らかなそれは、役目を果たすことなく、虚しく朽ち果てる。

 

しかしそれでも、このにっかり青江という刀の鞘は、佐脇なのだ。

 

「初めて知りました…武士の刀は、そんな風に泣くのですね」

 

紡がれた言の葉は、暗く深いなにかへと沈みこむ。その果てから沸き上がるものこそ、にっかり青江なのだ。

 

#戦の興奮冷めやらぬまま近侍さんが帰ってきました(Twitter参加作品)

​●夜ふけて

やわらかな朝日が、天空を色あざやかに彩る。うたかたの光は戯れつつも、まるで命を注ぎ込むように、地上を照らした。清らかな風は、女神の息吹きのように、涼やかにそよぎ去る。

 

その美しさに導かれるように、佐脇はうっすらと眼を開ける。

 

カーテンがぼんやりと明るかった。室内は仄暗い闇に包まれているが、それでも、灯りひとつなしでどこに何があるかを見分けることが出来る。天使の羽のように軽やかなベットが、彼女の肉体を心地よく包み込む。けれどその喜びを、どこまでも味わい尽くすことは出来そうになかった。

 

「……んっ」

 

佐脇は吐息を、苦しげにもらした。寒かった。時は十二月。すでに冬は始まっている。

 

「さむい……」

 

鈴の音のように美しい声が、悩ましげに震えて、儚げに溶ける。けれど甘やかな色香は、まるで男を誘惑するように、艶かしく漂っていた。

 

寝起きでむくれ気味であっても、花のように愛らしい印象は失われない。まるでそれが自然の摂理であるかのように、佐脇の美貌は可憐に咲きこぼれている。

 

「……やっぱりさむい」

 

佐脇はたおやかな体を震わせ、呟いた。上掛けからはみ出ていた肩に、生白い冷気が、ゆっくりと染み込む。彼女はそれを拒むように上掛けをひきあげ、首までかぶる。果実のようにみずみずしい肢体を、右隣にある暖かいものへと、甘えるようにすり寄せた。

 

かすかな呻き声が、上掛けの中から生じる。それは香気のように漂って、佐脇を陶酔へと誘う。その強烈な色香に、彼女の心は切なげに痙攣する。弾むように高鳴る胸をおさえ、そっと上掛けの下を覗きこんだ。

 

にっかり青江は目を覚ましていなかった。

 

佐脇はほっと息を吐き、暖かさを得るため、さらに青江へと身を寄せる。前後から攻めよせる冷気と、彼の温かみが、まるで互いを求めるように絡み合う。

 

彼女はその奇妙な感覚に身をゆだねながら、自分がにっかり青江と同衾するまでの出来事を、途切れ途切れに思い出していた。

 

偶然、偶然なのだ。

 

今あるこの全ては、偶然の産物だと、佐脇は確信している。いつ頃だったかは、もう分からない。それは蜃気楼のように曖昧で、実体がない。おぼろ気な記憶は、まるで何かから身を守るように、扉を開けてはくれない。佐脇は毎日この扉を開けようと試みたが、胸の痛みと共に失敗に終わる。

 

だからこれは、ひとつの願望なのかもしれない。佐脇はそうなのだと、思い込むことにしている。

 

結果からいえば佐脇は自分の精神と、にっかり青江の精神が、どこまでも深い場所で黒く染まっていることに気づくべきだった。

 

否、それだけではない。

 

近侍の石切丸が遠征に赴き、それにしたがって、残った者たちが割り当てられた他の仕事に目を回していることに気づくべきだった。そして自分が誰かを呼ばなければ、本丸は無人に等しいことを、深く考えるべきだった。

 

けれど佐脇はその全てを無視してしまった。まるで夢見る乙女のように無邪気なまま、迷いこんでしまったのだ。にっかり青江が彼女への想いすべてを、たぎらせた部屋へ、入り込んでしまった。

 

佐脇は、彼を驚かせようとしただけだった。幼子のように無垢な心で、足音を忍ばせ、入り込んだ。もちろん、その結果はただひとつである。

 

彼女はそれを、春の嵐のようなものだと思い込んだ。流星のようにまたたく間に生まれては消える悦びの味が、彼女に備わる理性を狂わせた。抵抗する気力はすぐに失せた。まるで水面を流れる花弁のように、肉体は素直に受け入れる。やがてすぐに、心もそうなった。

 

自分が信じていた絶対的な何かよりも、陶酔が深いことを認めるよりほかはなかった。本来忌まわしいと思うべき行為が、一度だけでなく、一夜だけでなくったのは、それ故のことだった。最初はただの暴力でしかなかった行為が、甘美な幻想を追い求める行為へと変化してしまう。佐脇はそれを、どうすることも出来なくなってしまった。

 

「……っ」

 

佐脇は思い悩むことを放棄した。彼女の理性は、まるで溺れる魚のように、哀れなほど苦しんでいる。女の感情を自覚したのは、このときが初めてだったからだろう。

 

上掛けの下で寄せられた身体に、青江の温もりが染みてくる。それがしっとりと湿り気を帯びているのは、言うまでもない。

 

佐脇はふっくらとした唇を噛み締め、青江へさらに身を寄せた。彼の口から、気持ちよさげな呻きが響く。互いの肌が、溶けるように重なり合って、熱を生じさせる。

 

「……あおさん」

 

佐脇は彼の名を呼ぶ。まるで祈るように、そして救いを求めるように、その名を唱える。それと共に、さざ波のようなざわめきが、胸の中でかすかに動いているのが分かった。

 

「あおさん」

 

佐脇は腕をのばし、青江の体を抱き寄せる。彼はひときわ大きな呻きを漏らしたが、やがて安堵したように大きく息を吸い込み、眠りから覚めぬまま、ゆるやかに沈む。

 

それを悲しむべきか、喜ぶべきか、彼女にはまだ分からなかった。

​●お月さまと

佐脇の指先が、黄昏の光を探りもとめるように、月をなぞった。

 

その細い指は、月光と絡み合って、なめらかに溶ける。けれど彼女の香りは、うたかたの夜の世界で、歌のようにしみじみと漂う。

 

その甘やかな香りが、青江を陶酔へと誘うのだ。

 

「きもちいい……」

 

夜風の心地好さに、佐脇はため息を漏らした。

 

その風はまるで、彼女の傷付いた心を癒すように、優しげにそよぐ。例えるならばそれは、慈悲深い母の抱擁に似ていた。吸い込めば吸い込むほど、彼女の心は暖かなものに包み込まれていく。

 

佐脇はその何かを、あこがれを抱きつつ追い求めていた。

 

「お月さま、きれい……」

 

佐脇は夢見る幼子のように、ゆっくりと呟いた。鈴の音を思わせる声は、悩ましげにふるえながら、夜空に吸い込まれていく。そこから零れ落ちるのは、佐脇という乙女に眠る想いの欠片。それは目覚めることなく、夢の中を旅するだろう。

 

その果てにあるものを、佐脇はずっと探し求めていたのだ。

 

「月を見ているのかい?」

 

場違いなほど艶かしい声が、佐脇の心を呼び戻す。その声に吸い込まれるように、佐脇はふり返る。

 

「あ、あおさん」

 

青江の名を口にして、佐脇は息を飲む。美しい、美しいのだ。たまゆらの光に彩られた彼の姿は、すべてを忘れさせるほど美しかった。

 

「こんな夜に奇遇だねぇ……まるで何かが、僕らを引き寄せたみたいだ。……んふふっ、何てね?」

 

青江は妖艶とした笑みを浮かべた。黄金にきらめく瞳が酔ったように潤んで、佐脇を誘惑する。その淫らな誘いに耐えきれず、彼女は恥ずかしげに頬を赤らめた。

 

「あ、あの……寝苦しくて……夜風に当たりたくなって…それで、ここに…」

「…確かに今夜は寝苦しいねぇ」

 

青江の口から、女のような忍び笑いが漏れた。蠱惑的な彼の美声が、佐脇の体にねっとりと絡みついて、蜜のように滴り落ちる。その甘やかな声に、彼女の心と体はゆるやかに吸い込まれていく。

 

「気まぐれ、というわけじゃなかったんだねぇ」

「あ、あおさんは、どうしてここに?」

「たまたまかな?」

 

青江は愉しげに頷きながら、目を細める。夜空のもとで妖しげに煌めく彼の姿は、この世の者ではないかと思わせるほどに幻想的であった。

 

その超越的な美しさに、佐脇は言葉を失う。そしてそれ故に、彼女の言の葉は形を成さないまま、枯れ木のように朽ち果てる。

 

「…………っ」

 

彼から逃れるように、佐脇は苦しげに目を伏せた。もちろん、これは虚勢にすぎない。

 

佐脇水花は、にっかり青江の魔性にこれ以上魅了してしまうことに耐えられなくなっていたのである。

 

「おやおや、どうしたのかな?」

 

青江は佐脇の身を案じるように、たおやかな彼女の背に手を添える。

 

電流にも似た衝撃が、体の中から生じた。それは激しく、熱っぽくあつく、佐脇の体を駆けぬけていく。

 

「……あおさん」

「今日は何だか、冷えているよね?」

「わ、私は寝苦しくて此処にいるだけで……」

「冷えているよね?」

 

青江はそう言うや否や、佐脇の背中に自分の体をそっと押し当てる。彼女を逃さないように、両腕を回して、強く抱きしめる。彼は佐脇より頭一つぶんは背が高いので、自然と彼女を抱き抱えるような姿勢になった。

 

互いの熱が、溶け合うように重なり合う。

 

「んふふ、これでもう寒くないだろう?」

「あ、あおさん……」

 

青江は戯れつつ、甘い言の葉を紡ぎ込む。それは無言のままひっそりと横たわっている。抵抗など、出来るはずもなかった。どうにかしようと懸命に考えれば考えるほど、佐脇の理性はゆるやかに薄れて、消えていく。

 

この身を、青江という肉体の中に沈めずにはいられない。

 

だから夜空など目に入らないのだ。

​●暗闇の中で

扉を無音のまま押し開いた。

 

一瞬の間をあけて、男は顔をのぞかせる。彼の瞳は飢えた獣のように、醜くぎらついていた。ひどく粘り気のある息を吐き出して、周囲を見回す。

 

冷えきった外にいたというのに、強ばった顔に脂汗を滲ませている。それは唾液のような汚さを秘めて、ぬるりと滴り落ちた。独特の悪臭が、蜜のように濃く立ち込める。育ち良い娘が嗅いだなら、一呼吸で失神するだろう。

 

男の目的を知るには、それだけで充分であった。

 

どうやらこの本丸では、宴席がもたれているようだった。廊下の向こうから、賑やかな声が聞こえてくる。その無邪気な笑い声が、男の殺意を刺激する。

 

殺してしまいたい。

 

強烈な願望が、体内で暴れまわる。脳髄までしびれさせる暴力衝動が、彼の心を支配していく。

 

しかし暗殺に関して、男の意識はどこまでも冷静であった。機会はこの一度だけ、以前からそう考えてきた。審神者を暗殺するとなれば、この時をのぞいてない。宴席が開かれているのなら、誰もが酔っているだろう。そうでなければ、今日まで暗殺の時を待った意味がない。

 

「--殺してやる」

 

男は廊下を猫のように走り出した。灯りはほとんど消され、ほの暗い闇に包まれている。それはまるで得たいの知れない化け物のように、無言のまま横たわっていた。

 

男はその全てを無視して、寝室へと向かう。彼の想像力は、哀れなほど失われ始めていた。獲物を目にした獣のように、ありとあらゆる物事から背を向けて、駆け抜ける。

 

それは紛れもなく油断であった。

 

暗殺者が勝利を確信したとき、彼の死は、確実なものとして忍び寄っていた。それもやはり、得たいの知れない化け物のように、音もなく流れ込んでくる。

 

「--っ‼」

 

審神者の寝室へ侵入しようとした矢先、暗闇を何かが横切ったように感じた。

 

それと共に、かぐわしく甘やかな香りが、鼻をひくつかせる。誘うような、惑わすような香りだった。昨晩抱いた愛人とは、比べものにならないほど淫らな香りが、花のように咲きこぼれる。

 

-何故、このような場所に?-

 

暗殺者が眉を潜めた瞬間、氷を思わせるほどに冷ややかな何かが、首筋をくすぐる。それと同時に、酔いしれてしまうほどに刺激的な香りが、暗殺者の脳を震わせた。

 

-何が起きた?-

 

暗殺者が後ろを振り向こうとした瞬間、小さな声が聞こえた。それは熱っぽい色気を含ませて、闇と解け合う。同時に、信じられないほど冷えきっていた。

 

「--笑いなよ、にっかりと」

 

彼は生涯の終わりに、ひっそりと背後に近づき、機会を待ちつづけていた“にっかり青江”の吐息を耳にした。

 

ほとんど痛みを感じずに絶命出来たのは、幸運というほかない。

​●悪夢とともに

愛らしい乙女の肉体を、溺れるように貪り尽くす。

 

やわらかな肢体は悦びに染まりはて、艶かしく濡れそぼる。蜜のように滴り落ちるそれは、熟れた女の香気を絶えまなく漂わせて、少年の理性を狂わせる。

 

少年は心惹かれた場所を、貪欲に嘗めしゃぶり、愛撫する。その行為を執着に繰りかえし、乙女の肉体を熱っぽくあつく、ゆっくりと溶かしていく。その度に乙女の肉体は、悩ましげに反応して、少年の心を痺れさせる。

 

ただし、少年をもっとそそったのは、あたたく湿った乙女の蜜壺だった。そこを指で弄ぶように、ゆっくりと探り求めて、自分を送り込む。

 

乙女はすぐに、呼吸なのか声なのか分からないほどにとろけた音を漏らしながら、その肉体を震わせる。少年は、可愛らしいしく咽び泣く乙女を見下ろしながら、愛情と服従を誓わせようとした。

 

けれど乙女は、決してその言葉を口にすることをしなかった。これほどまでに身体を開き、官能にうち震えているというのに、その言葉だけは与えてくれない。

 

「――佐脇、頼む、言ってくれ」

 

少年は乙女を攻め立てながら言った。その度に耳につく粘った水音が、淫らに響きわたる。彼の声は熱くかすれ、悦びと苦痛のせめぎ合いを感じさせた。

 

「おねがいだ、おねがいだから、僕のことを、好きだと、だから、頼む」

 

「――あっ」

 

乙女―佐脇のふっくらとした唇がかすかに開き、可愛らしい舌が、戸惑うようにちろちろと踊る。少年は目を猫のように見開いて、確信を抱いた。

 

―もう少し、もう少しで佐脇は俺のものにな……―

 

肉と骨がきしむほど強く肩を握られた。冷たい(どころじゃない)感触に、少年の心は石のように固まる。得たいの知れないなにかが、絶えず、匂いのように漂う。それは青白く、生ぬるいものを含ませて、冷ややかに流れていく。

 

少年はおそるおそる振り返ると、そこには見慣れた、しかしいまは絶対に目にしたくない青年の顔があった。酔ったように潤んだ瞳には、あられもない憎悪がむき出しになっている。深緑の髪が妖しく揺らめき、少年の全てを麻痺させていく。

 

そして青年の溶けるような美貌に、妖艶とした微笑が刻まれ、嘲るような声が少年に告げた。

 

「ねぇ、僕ともっと楽しいことをしようよ?」

「――あ、あ、あああああああっ!!!」

 

悲鳴をあげて少年は飛び起きた。

 

真冬のまっただ中というこもあって、部屋は完全に冷えきっている。だというのに少年の背中は、嫌な汗が絶えまなく流れていく。息は乱れ、呼吸がままならない。この世の終わりを見た予言者のような顔をして、彼は辺りを見回した。

 

「主ぃっ、どうされたのですかぁっ!?」

 

少年の絶叫を聞きつけた近侍の長谷部が、彼のもとへ駆けつけた。眉目秀麗と称すべき顔は、身の毛もよだつほどの凄まじい気迫がにじみ出ている。否、満ち溢れていた。

 

「い、いや、何でもない。むしろ僕は、お前のテンションに驚いてるよ」

 

内心の動揺をごまかすために、少年は適当なことを言った。例えようもない虚無感が、夜風のように吹き抜けて、少年の全てをあざ笑う。そこでようやく、良くも悪くも夢であったことに気がつく。

 

ああ、と少年はため息を漏らす。

 

ひどく情けない感情を抱きながら、彼は唇を噛みしめる。まるで、砂を噛むような気分だった。あのまま目覚めなければどうなっていたか、考えるまでもない。

 

突然、青江に組み敷かれてあえぐ佐脇の姿が思い浮かんだ。もちろん、そんな光景を目にしたことは一度たりともない。

 

しかしそれは、現実のものとして存在している。

 

佐脇という少女について、少年は多くを知らない。今まで目にしたどの女よりも愛らしく、可憐だと思っている。そして身にまとう色香も、この世のものとは思えないほどに、濃密で甘い。

 

けれどその全てを、少年が味わい尽くすことはない。おそらくは一生、縁することなく終わるのだろう。

 

何故なら所有権は、にっかり青江なる付喪神になるのだから。

​●塩辛ケーキ

にっかり青江は眠りから目を覚ました。

 

暖房をつけ忘れたせいで、寝室の空気はひんやりと冷たい。彼は体をふるわせながら、時間を確認した。時計は暗闇の底で、しずかに時を刻んでいる。午前5時を少し過ぎていた。朝餉にはまだはやい。

 

もう一度眠ろうかと思ったが、眠気はまったく感じない。特に何をするというわけでもないが、彼は起き上がることにした。

 

その瞬間、彼は自分がなぜ目覚めたのか本当の理由に気づいた。

 

「ちょっとお腹が空いたな」

 

誰にともなく青江は呟いた。その声は幻のように、暗闇へと消えていく。そう、彼は腹を空かせていたのだ。

 

傍らの机には、昨夜の食べかけのケーキがのったままになっていた。もちろん、青江が買い求めたものではない。

 

佐脇水花の作ったケーキだった。といっても本人は、愛くるしいほど頑なに否定していた。

 

「……たまに彼女は、素直じゃなくなるんだよねぇ」

 

青江は苦笑する。このケーキは彼女の手作りに間違いなかった。それ以外にあるはずもないのだ。

 

ケーキ職人が作ったものにしてはスポンジが堅すぎるし、クリームはおどろくほど塩辛い。砂糖と塩をまちがえてしまったのだろう。こんな基本的な間違えを、ケーキ職人がするはずもない。

 

しかし佐脇は買ってきたと言いはった。そしてひどく迷う風情で帰っていった。毎夜佐脇は、彼と悦びの限りを尽くして眠る。ある種の呪いのように、彼女はそれに依存している。だというのに、昨夜はすべてを投げ捨てるように逃げてしまった。

 

よほど恥ずかしかったのだろう。

 

「そこが可愛いんだけどねぇ……」

 

ぼんやりとケーキを眺めていた青江は、楽しげな笑みをうかべ、冷えてさらに硬くなったケーキを食べはじめた。

 

やはりというべきか、ケーキはあい変わらず塩辛かった。

​●夢とまぐわう

夜夢と戯れ、ゆるやかに耽溺する。

でたらめな夢の甘さに、深く酔いしれて、心を震わす。

けれど満たされるには何かが足らず、欲深く求めて、さ迷う。

 

佐脇はそっと両手を伸ばす。

 

熱っぽい唇を静かに、それでいて激しく、青江の方に押し付けて、思うままに口付けを交わす。すると彼は、か弱い幼子のように、彼女の胸にうっとりと沈む。悩ましげな呻きを漏らして、甘やかな悦びを、あますことなく味わい尽くす。

 

佐脇は甘く、切なげに息を乱して、深みよりわき出た疼きを、浅ましく堪能する。

 

いつも、その途中で目が覚める。

 

「……んっ」

 

むし暑い夏の朝、佐脇は苦しげにベットから起き上がった。

 

息は荒く、たおやかな肉体は汗にまみれている。豊かな胸は淫らなほどに振幅し、なぜかその先端がうっすらと湿っている。透明感に満ちた肌に、黒髪がまとわりつく。絹のように柔らかな太もも、艶かしく濡れそぼっていた。

 

その奥深くで、息をひそめる蜜の花は、露に濡れながら、しっとりと口を開けている。汗とは違う類いのものが、流れるように滴り落ちてくる。

 

「ど、どうして、こんな夢……」

 

佐脇は苦しげに呟いた。胸からわき上がる羞恥心を、懸命に押さえつける。受け入れることが出来ないせいか、強い痛みすら感じる。

 

「こんなの、いや」

 

額の汗を拭って、立ち上がる。寝室はねっとりと蒸れており、空気は重くよどんでいた。佐脇はいても立ってもいられず、逃れるように寝室を後にする。

 

いやらしく火照る体を、洗い清めてしまいたかった。

 

「まだ朝なのに……」

 

朝日は、ひどく寂しげに照り付けている。奇妙に膨らんだような生ぬるい風が吹き抜ける。蝉の鳴き声が、わき出る泉のように聞こえてきた。

 

夏の朝はせわしなく、そして死に急ぐように、世界の全てを変えていく。

 

「……まだ皆さん、起きてませんよね」

 

佐脇は浴室のドアを、おそるおそる横に引いた。そうすると白い湯気が、しっとりと漏れてきて、肉体を湿らせていく。幸いなことに、浴室には誰もいない。髪の毛が落ちるさえ聞こえそうなほど、浴室は静まり返っている。

 

「良かった……まだ誰もいない」

 

佐脇はポツリと呟いて、誰にともなく頬笑む。ふっくらとした頬を赤らめさせて、熱い湯をはった。

 

その間にパジャマを脱いで、全身を練り絹のようにあらわする。男ならば例外なく、獣欲をおさえかねないだろうその姿は、花のように愛らしく美しい。

 

「はぁ……」

 

甘い吐息を漏らして、湯船に身を沈める。入浴剤のひそかな匂いが、お湯からうっとりと立ち上った。体に溜まった疲労がにじみ出て、全てを癒していく。その心地よさに身をまかせて、海藻のように頼りなくたゆたう。

 

けれどそれだけでは、あのおそろしく淫らな夜夢から解放されないことを、佐脇は悟っていた。

 

夢はどこまでも無責任で、粗末なもの。

 

しかし毎夜、同じ夢に溺れるとなれば話が違ってくる。日を重ねるごとに、その現実感が増してくるとなればなおさらである。ことに、自分と青江が交わりの限りを尽くすものであれば。

 

夜ごとに絶えず、冷ややかな満月に見守られながら、悦びの果てを追い求め、貪り尽くす。青江はほほえみながら、指をあちらこちら動かして、執着に愛撫する。そして自分は、悦びの下で咽び泣く。

 

こうした夢が繰り返される理由は分からない。否、佐脇はそう思い込んでいた。自分の心と体が、なにかを求めている。その理由について考えることを、本能が拒んだ。

 

ただただ、恐ろしかった。

否、本当にそうだろうか。

 

「……明日は……どうなってしまうのかしら……」

 

佐脇は呟いた。夏虫が痙攣するように、激しく乱れて、鳴き声を上げる。その声は浴室の窓からするりと入り込み、耳障りな音をかなで続けた。けれど彼女はそれに気付くことなく、悩ましげに思いを巡らす。

 

その時だった。

 

「そこに誰かいるのかい?」

 

青江の声が突然のように聞こえてきた。

 

「あっ」

 

佐脇は艶のある声を漏らして、顔を上げる。脱衣所からだった。青江の声はとろけたように甘く、それでいて凜としている。しかし奇妙ないやらしさが、絶えず、匂いのように漂ってくる。

 

その麻薬にも似た何かを孕ませた彼の声に、心と体が震え上がる。もちろん、恐怖からくるものではない。もっと別の、子宮を溶かしてしまう類いのものだった。

 

「もしかして、佐脇ちゃん?」

 

「……っ、ごめんなさ……わ、私です。あの、汗をかいてしまって、だからあの、勝手に」

 

佐脇は悲鳴のような声を上げた。鈴の音を思わせる声は、浴室ないで清らかに谺する。下品さはまるでなく、ある種の神々しさが備わっている。しかし内から湧き出るそれは、完璧に熟れた女の蜜だった。

 

「ねっとりと、弄ばれてしまうように、むし暑かったものねぇ」

「そ、そうなんです……すごく寝苦しくて……だから汗を流したくて」

「うんうん、分かるよ。僕もね、そのつもりで此処に来たんだ」

 

完熟した果実の蜜のように湿っぽい声が、まろやかに反響する。それは佐脇の理性を惑わし、その全てを麻痺させていく。彼女の心が痙攣したのは、そんな時だった。

 

「ごめんなさい……あの、すぐにでますね」

「一緒には入れないんだねぇ。それはとても、残念だなぁ」

「あ、あおさん……!」

「んふふ、冗談だって。急がなくて良いよ、君はゆっくりと体を清めてくれ。また後で来るから」

 

佐脇は新月のように清らかな目を潤ませて、耳をすます。女のように忍び笑う青江の声が聞こえる。すぐに脱衣室のドアを見た。彼の影が、視界の隅に浮かぶ。浴室の霧が蒸発してしまうほどの熱が、体の全てを溶かしていく。

 

その熱はゆるやかに、淫らで甘美な夢のなにもかもを、鮮明に思いださせる。すべてが同時に思い浮かび、なめらかに融合していく。

 

喉の奥からひどく切なげな声が、雨音のように漏れた。

 

「おや、どうかしたのかい?」

 

佐脇の真意を見透かしたように、青江は訊ねた。

 

「あ、いえ、なんでもないです」

 

佐脇はあわてて答えると、まるで穴に隠れるように、体を湯の奥深くにしずませる。湯水が音をたてて流れた。理由は分からなかったが、その音を耳にしたとき、様々な感情がせめぎ合い、この愛らしい乙女の心を不安にさせた。

 

その晩もやはり、佐脇は同じ夢を見た。

 

 

#お風呂でばったり遭遇した刀剣男士と審神者の反応(Twitter参加作品)

​●お料理ぽろぽろ

空が色あざやかな茜色に染まる。太陽はゆるやかに傾き始め、空に溶けた。満月は地上に落ちてきそうなほど、はっきりと見えている。冬の早い夕暮れは、そう遠くない。

 

「今晩のご飯は僕がつくろうかな」

 

にっかり青江が突然にそう宣言した時、周囲の者たちには、驚きと困惑が広がった。青江は怠け者というわけではないが、唐突に働きだせば、彼を知る者は戸惑う。

 

もちろん、それは主である佐脇も例外ではなかった。

 

「いったいどこで覚えたのですか、あおさん」

 

佐脇はやわらかで華奢な身体を、青江にぴったりと密着させた。愛くるしい瞳を星のように輝かせて、彼の手元をのぞきこむ。

 

「んふふっ、そんなに僕が気になるのかい?」

 

青江は悪戯めいた笑みをたたえて、佐脇の横顔をちらりと見つめた。なまめかしい色気を、匂いのように漂わせて、彼女をゆする。すると佐脇は、ひどく恥ずかしげに頬を赤らめさせた。

 

「だって、お料理が得意だとは知りませんでしたから」

「得意ってほどでもないさ。それに、こういうことはいつも、置き物連中がやっているからねぇ。君にお披露目する機会がなかったんだよ」

「…………でも私より上手です」

「んふふっ、妬いているのかい?」

 

青江は女のように忍び笑いながら、冬物のタラを包丁で三枚におろした。身の締まったタラは、脂の乗りも良い。適度なやわらかさもあって、トロリとした感触が指に伝わる。

 

彼はその感触を楽しみながら、タラの頭を兜割りにして、グツグツと煮だった湯へ放り込む。慣れた手つきでネギを刻んで、鍋の中へいれる。

 

「30分ほどで火からあげると良い。見た目はちょっと汚いけどね」

「……私の料理に比べたら、汚くなんかありません」

「僕は嫌いじゃないよ?独創的で、少しずつ歯応えがあった。えっと、肉じゃがだったかな?」

「……カレーライスです」

 

佐脇は拗ねるように、ぷいと横を向いた。しかし青江から離れようとせず、遠慮なく彼に寄り添ったままだった。彼女の瞳は、子供のように純粋な愛らしさだけがあった。

 

「ごめんごめん。それ、とっても美味しかったよ」

「褒めても何もありませんよ」

「おや、信じてくれないのかい?それは残念だなぁ」

「食べてくれたの、あおさんだけでしたから。もう作りません」

 

佐脇はすねつづけている。昔のことを思い出しているのだ。料理下手である彼女が、腕によりをかけて作ったカレーライスを、青江たちに振る舞ったことがある。

 

その結果は、言うまでもない。

 

具材たちはドロリとしたカレー粉に包まれ、熱い豚の肉汁が滴り落ちていた。佐脇が炊いた米も、水の配分に問題があったせいで、得たいの知れない何かに成りはてていた。

 

「今度は僕とつくろうよ。カレーライス、まだ作ったことがないからさ」

「……約束ですよ?」

「はいはい」

 

青江の口調がひどく優しげであることに佐脇は気づき、彼を見つめた。すると青江は、誰もが和んでしまうような笑みを浮かべ、佐脇を褒めた。

 

「今から楽しみだねぇ。君はとても、物覚えが良いから」

「もう……褒めても何もないのに」

「褒めてるつもりはないんだけどなぁ」

 

青江の美貌に微かなおかしみが添加された。彼はタラの身を薄目におろしはじめる。流れるように美しい手さばきで、刺身を完成させた。ぷりぷりとした上品な刺身の新鮮が、佐脇の食欲をそそった。

 

「つまみ食いはダメだよ、佐脇ちゃん」

「そんなことしません」

「んふふ、冗談だよ」

 

青江はそう言いながら、粗びきにした白ゴマとともに刺身の半分ほどを鍋の中へざっとあける。それから用意していた醤油を、小さじ三杯ほどかけて、かき混ぜた。刻んだ香草を少量、散らす。

 

「どうやら出来たみたいだねぇ。あ、そういえばご飯は?」

「もう炊けてありますよ。少し、冷めてしまったみたいすけど……」

「少し冷たいぐらいが調度良いよ。うん、ちょっと味見してみようかなぁ」

 

青江は甘えた顔を浮かべて、佐脇をじっと見つめる。金色の瞳は満月を溶かしたように、しっとりと潤んでいた。酔っているわけではない。もっと別の何かが、彼をそうさせているのだ。

 

「もう、つまみ食いはダメじゃなかったんですか?」

「んふふ、これは味見だって」

「……皆さんには内緒ですよ?」

 

佐脇は微笑んだ。その表情は、天使の羽のように軽やかなものだった。そして、かつて目にしたことがないほど楽しげでもある。

 

特に後者が、とても重要だと青江は思った。

​●それは罪か罰か

数多の敵を蹂躙しながら、青江は滑るように駆け抜けていた。声は上げず、雑念すら捨て去って刀を振る舞う。しかし内に宿る暴力衝動は、衰えることなく発動し続ける。

 

「そんなに僕が欲しいのかい?」

 

青江はにっかりと笑って、哀れな敵をまたたく間に刺殺していく。血飛沫は目が眩むほど色あざやかで、美しい。彼は過去の愛人でも思い出したように、うっとりと目を細めた。金色の右目を溶けてしまいそうなほどしっとりと潤ませる。

 

「だったら恥ずかしがらないで出てきておくれよ」

 

青江はその類いまれな美貌を場違いなほど蕩けさせて、ぬるりと広間に入り込んだ。

 

「ああ、いいねぇ……そういうの嫌いじゃないよ」

 

青江は甘い吐息を漏らした。刀を構えているのは、年若い男一人だけだった。端正ではないが、醜男というわけでもない。といっても、その顔にあらわれているのは憎悪だけである。

 

「強がっているんだねぇ。でもそれって、何か意味があるのかなぁ。一応、降伏をおすすめするけど」

「誰が降伏などするか!この忌ま忌ましい化物風情が!」

 

男は青江を睨み付け、吐き捨てるように吠えた。

 

「貴様などに哀れまれる筋合いはない!あの小娘を慰めているだけの、汚らわしい肉人形なんかになぁ!」

 

—瞬間、青江の内部で最も危険な装置が作動した。

 

あでやかな深緑の髪が、さざ波のように揺れ動く。前髪によって、ひっそりと息を潜めていた右目は、血のように赤く光った。その瞳孔は開かれ、あられもない殺意が剥き出しになる。

 

青江は刀をまっすぐに構え、突風のような速さで男の股間へ突き刺す。硬くて、それでいて柔らかなものへもぐり込む感触が生じると同時に、男の哀れな悲鳴が上がる。内蔵そのものから発生する激痛に、男は顔面をゆがませて、剣を落とした。

 

青江は冷笑を浮かべる。無様で滑稽な男の姿を見下ろしながら、冷ややかに言った。

 

「肉人形ねぇ……たしかに、君の言う通りだよ。それで、その肉人形にいたぶられる気分はどうだい?」

「ぎっ、ぎさまっ、この、おれを、おれを、だれだと」

「おやおや、まるで盛りのついた犬だねぇ。……こんなに痛くちゃ、もう僕の主を馬鹿にする気になれないだろう?」

「なにを、ふざけた、ことをっ」

「このまま君の首を斬り落とすのは、調理された鳥を斬るより簡単なんだ。でも僕の主は優しい人だからねぇ……だからもう一度だけ、言ってあげよう。……降伏をおすすめするよ?」

 

青江の声は静かで、おそろしく丁寧なものを含ませていた。けれどそれでいて、石のように無機質で冷たい。どこまでも冷酷なその声が、男の命をぞくりと撫で回す。

 

この言葉を拒めばどうなるか、考えるまでもない。

 

「この、ばけものがぁぁっ!」

 

かえってきたのは、憎しみに満ち溢れた絶叫だった。

 

男は血で染め上げられた股間から手を離し、青江へ掴みかかろうとする。その顔面は見るも無惨に変わり果て、風船のように膨らんでいた。

 

「はいはい」

 

青江は呆れたような声を響かせ、刀を構える。ためらいの欠片も感じられない、流れような動作だった。

 

「だったらもう君は、笑う必要もないね」

 

青江の刀が、男の首をあっさりと斬り落としたのは、次の瞬間だった。

 

 

#審神者の事を馬鹿にされた近侍の反応(Twitter参加作品)

​●そして夢は巡る

朝日は光を溶かしたように、やわらかなものを含ませて、開いた窓へと流れ込んでいく。みずみずしい風はたわむれるように歌い、雲は空の中で笑う。

 

すると乙女の瞳は、さわやかに癒されるように、弱々しくゆれ動いた。

 

「……んっ」

 

乙女は悩ましげに吐息を漏らして、そっとふるえる。まるで安らぎを求めるように、初々しい光へと手を伸ばした。

 

「お目覚めかい?」

 

まどろみの中で、甘やかな声がこだました。その声が乙女の心を満たして、うっとりと誘惑する。彼女は導かれるように、目を覚ました。

 

「……“お、おにいちゃん”…?」

 

「おはよう、可愛いおねぼうさん?」

 

「……んっ、そんなことない」

 

乙女は甘えた子猫のような声をもらして、涙をうかべた。愛しい“義兄”、青江の姿が、瞳のなかでゆるやかに浮かびあがる。

 

彼は母性あふれる笑みをたたえて、まるで子を慈しむような口ぶりで、乙女の名前を呼んだ。

 

「“水花”ちゃん、おきて?」

 

そして青江はおもむろに、ふっくらとした乙女の頬を、弄ぶようにつまんだ。やわらかい頬の感触を楽しみながら、ふにふにとねじる。

 

「…やだぁっ……いたいっ……」

 

乙女、水花の湿っぽく甘い声が響いた。

 

その流れるように柔らかい音の美しさに、青江はうっとりと耳をすます。けれど欲深く貪ることはせず、愛情をこめて、彼はやさしく囁きかける。

 

「君が起きるまで、やめてあげないよ?」

 

「……おにいちゃんの、いじわる」

 

「んふふっ、そんなわけないだろ?君は僕のかわいい“義妹”なんだから」

 

「……もうっ、おにいちゃんのばか……」

 

どうにか指を外した水花は、頬を赤らめながら青江に訴えた。

 

青江は面白がるような、それでいて心配そうに、水花を見下ろしていた。彼はとろけた美貌に、妖艶とした気配を付け加えさせて、ねっとりと目を細める。

 

「君が言うことを聞かないからだよ?“お義父”さんだって、いい加減呆れているんじゃないかなぁ」

 

「……“お父さん”」

 

水花は思考をめぐらせた。そうなのである。青江は水花の義理の兄なのだ。

 

父は水花を、母は青江を得たすぐ後に、愛する相手を失った。そして何かに導かれるように、お互いに出会った。

 

水花と青江は、幼い頃から共に育ってきた。彼らは兄妹というよりは、恋人のそれに近い。熱っぽい想いを絡ませあって、秘めやかな愛を紡いでいた。

 

その行為は、日ごと“深いもの”へと昇華している。

 

「……お父さんは私たちのこと、よく思っていませんよね」

 

水花は不安げに、ほどよく弾力のある唇をふるわせた。

 

「どうして?」

 

「だって私たち、兄と妹で……」

 

「血は繋がってないよ。それにね、僕は養子ということになってるから。大丈夫じゃないかな?」

 

「あれ、そうでしたっけ……」

 

「うん、そうだよ」

 

青江はゆっくりとうなずいた。獲物を前足で押さえつけた猫のような表情で、水花を見つめる。

 

水花は湿ったものと、義妹としての態度を混ぜ合わせた表情をうかべる。少しだけ、困惑していた。

 

「まだ朝ですよ……それに、今日は学校が」

 

「だから先に謝っておくよ。ごめんね、水花ちゃん」

 

「あっ」

 

青江は水花に飛びつき、ベットへと押し倒した。その間、彼女は抵抗しなかった。

 

水花は、まるで美しい花ぞのの中で、しみじみと眠るように目を閉じた。

 

「んふっ、良い子だねぇ……」

 

幼い頃から慣れ親しんでいる香りに包まれながら、青江は水花にほほえみかけ、あっさりと唇をうばう。

 

甘やかでやさしくて、そしてどこまでも切ない口づけだった。 二人はまるで、うたかたの夢を探り求めるように、舌を絡ませあう。狂おしい熱情がゆるやかに溢れて、しずかに漂う。

 

この瞬間に、言葉を交わすことでは決して伝わらないものが、流星のように、光っては消えた。

 

名残惜しそうに、青江が唇を離したとき、水花の腕は彼をしっかりと抱きしめていた。

 

「これだけ、ですか?」

 

水花はたずねた。甘えるような、そしてねだるような眼差しで、青江を見つめる。

 

「いや、もう少しだけ楽しむつもりだよ。続きは今夜に……ね?」

 

「本当に?」

 

「本当だよ、約束する」

 

「ちゃんと守ってくださいね」

 

二人の眼と眼が結びあって、愛の火を灯す。そして互いの吐息が、まるで何かを共有するように混じりあった。

 

それ以上、濃厚な行為に及ばなかったのは邪魔者が出現したからだった。

 

「……朝っぱらからお盛んなことだ」

 

ひどく高圧的な声が、波のように響いた。もちろん、青江ではない。水花の父親だった。

 

父親は抜け目なく水花たちを観察しながら、眉をかすかに動かしていた。それだけで彼が何を考えているのか、察することが出来る。少なくとも、水花はそう思っていた。

 

「おとうさん……ご、ごめんなさい……」

 

「おやおや……これからがいいところだったのに」

 

「お、お兄ちゃん……!」

 

水花は全身を紅くして、青江を嗜めた。ある意味、まったく動転している。それから彼女は、あわてて起き上がって、身だしなみを整えはじめた。

 

「あーあ、興が削がれてしまったよ」

 

青江は子供のように憎らしい声で呟き、水花の頭を撫でた。つややかな髪の感触を楽しみながら、父親を一瞥する。

 

「父親として見過ごすわけにはいかんからな。……まあ、お前たちの関係は前々から知っていたさ」

 

「それじゃあ僕らを引き離しにきたってところかな?」

 

「俺は反対していない。しかしお前たちはまだ高校生だ。学業に支障を来さない範囲で、楽しんでくれ」

 

「んふふっ、あい変わらず堅物だねぇ」

 

「失礼なことを言うな。子供想いの真面目な父親だと言ってくれ」

 

「はいはい」

 

父親の反応を耳にした青江と水花は、やがて安心したように顔を見あわせて、もう一度唇を重ねた。みずみずしい愛の味を噛みしめて、ひっそりと呼吸する。

 

「歯、しっかりと磨いてくださいね。ちょっとだけ“血なまぐさい”です」

 

「うん、ごめんね?」

 

「私も歯、磨かなきゃ……」

 

そう言って水花は、階段をかけ下りた。

 

朝日がまぶしい。風はほんのりと冷たい。小鳥の囀りが、子守唄のように聞こえる。朝の到来、その何もかもを心と体で感じながら、水花は微笑む。

 

全てが美しく、全てが優しい世界。それは宝石のように輝かしくて、きらびやかなものだった。

 

「はやく仕度しなきゃ」

 

水花は洗面所に入った。歯ブラシにたっぷりと歯みがき粉をもり上げ、口に入れる。清涼感のあるミントの香りが、口いっぱいに広がっていく。それと共に、青江のかぐわしい味が、あっという間に消えた。

 

それからあの“血なまぐさい”味も、跡形もなく消えた。

 

「……?」

 

歯を磨き終えた水花は、そこでようやく気づいた。今の今まで気づけなかったのが、不思議なくらいだった。

 

なぜ青江の口付けは、あんなにも“血なまぐさい”のだろう。

 

ふと、青江と口付けを交わした自分がどんな顔をしているのか、気になった。水花はおそるおそる顔を上げて、鏡のなかにいる自分を見た。

 

「あっ」

 

右頬に、青白い痣があった。それは独立した生き物のようにうごめいている。水花は深く呼吸しながら、その痣に触れた。それは恐ろしくなるほど冷たく、石のように固かった。

 

苦しみの喘ぎとも諦めの吐息ともとれるものを響かせたあと、水花は目を見開いた。

 

青江も父親も、一言も痣について触れなかった。

 

するとその時、鏡のなかに青江が映りこんだ。彼はきつく、厳しく、悲しげなものを浮かべた双眸を水花に向けている。

 

水花はしばらく沈黙して、大きなため息をついた。

 

そして、観念したようにつぶやいた。

 

「さすがに……何もかも都合が良すぎですよね、“あおさん”」

 

意識が暗転した。

 

×××

 

佐脇水花は道を駆けていた。

 

見馴れた、それでいて懐かしい場所だった。幼い頃から通学路として用いている道だった。

 

透き通るように青みを帯びた空が、どこまでも美しい。空も、太陽も、雲も、佐脇水花の心へと流れ込んでいく。

 

全てが美しく、全てが優しい世界。それは宝石のように輝かしくて、きらびやかなものだった。

 

「急がなきゃ……」

 

水花は呟いた。足どりは弾むように軽かった。ふっくらと柔らかな頬を紅潮させ、約束の場所へと向かう。

 

「“青江くん”、待っててくれてるかな」

 

青江とは、幼い頃から付き合いのある“幼なじみ”だった。

 

幼稚園のころ、公園で笑い袋を無くした時は、どこか頼りない少年だったが、今では美しい青年に成長している。その美貌は、花を溶かしたように甘く、どこか危険なものを孕ませていた。

 

そんな青江から、石切神社で会いたいと呼び出されたのである。

 

待ち合わせ場所は決まっていた。たずねる必要などなかった。二人にとって神社で落ち合う場所といえば、御神木の前と決まっている。

 

中学二年の夏。そこでお互いの気持ちを告げあった場所。水花にとって、宝物のように大切で、かけがえのない場所だ。

 

「青江くん……!」

 

水花は境内を駆けた。神社の前で、あわてて柏手を打つ。青江との将来、そのどこまでも健気で一途な想いを、神様に告げて、頭を下げる。それからまた急いだ。

 

御神木が見えた。

 

青江が、蜃気楼のようにはかなくて美しい青年がたたずんでいた。やさしい笑みをたたえて、水花を見つめている。満月を溶かしたような瞳が、かすかに光っては消えた。

 

「“水花”ちゃん」

 

青江が水花を呼んだ。彼に応えるように、水花は微笑む。酔ったように瞳を潤ませ、青江へと駆け寄った。

 

しかし、すぐに立ち止まった。

 

「あっ……」

 

これまでの事を忘れたように、水花は目を見開いた。

 

彼女の瞳は、青江の顔に据えられていたが、御神木へ逸れることもあり、その時だけはきつく、厳しく、悲しげなものを含ませていた。

 

「……?」

 

右頬に違和感があった。

 

水花は眉をかすかに潜めて、おそるおそる触れてみた。痼だった。どういう形をしているかまでは分からない。それは恐ろしくなるほど冷たく、石のように固かった。どういうわけか、独立した生き物のようにうごめいている。

 

「……“あおさん”」

 

水花は観念したようにつぶやいた。

 

「やっぱりおかしいですよ、これ」

 

白い光が境内にきらめいた。

 

×××

 

右頬が痛くて仕方がなかった。

 

『……ここまでで判明している“被爆都市”をお知らせします』

 

ラジオは新たなニュースを伝えていた。佐脇水花は顔を上げる。辺りを見まわしてから、そっとしずかに息を吐いた。

 

それから彼女は、教室の片隅に座り込んで、淡々と戦況を伝えるラジオに耳を傾けた。恐怖のせいで、体が小刻みにふるえている。

 

『ここまでで判明している被爆都市をお知らせします。まず西アメリカ。ロサンゼルス、サンフランシスコ、サンディエゴは1メガトン級融合弾の攻撃を受け全市が消滅。東アメリカはニューヨーク以下人口10万人以上の都市すべてが融合弾によって甚大な損害を受けており死者数は一億人を……』

 

「あーあ、ひどいことになっちゃったねぇ」

 

佐脇は顔を上げた。開けっ放しにしているドアに人影があらわれた。青江だった。どうやら彼も学校に残ったらしい。

 

「“青江くん”……」

 

水花は酔ったように瞳を潤ませる。

 

青江とは、幼い頃から付き合いのある“幼なじみ”だった。

 

幼稚園のころ、公園で笑い袋を無くした時は、どこか頼りない少年だったが、今では美しい青年に成長していた。

 

「みんな逃げちゃったみたいだよ……まさか“戦争”がはじまるなんて、みんな考えもしていなかったんだろうねぇ……」

 

「せんそう……」

 

佐脇は呟いた。まるでおとぎ話でも口にするような、ひどく曖昧なものが含まれていた。正直なところ、彼女には実感がなかった。

 

数時間前、世界規模の戦争がはじまった。その到来を告げる緊急放送の直後、町の人々はなにもかも放り出して、我先に逃げだした。

 

水花が町の人々のように逃げ出さなかったのは、この町が、直接被害半径から離れていると知っていたからだった。

 

……どうして知っていたかは、本人にも分からなかった。妙な違和感があった。しかしそれについて考えないのは、そうした方がいいような気がしたのだ。

 

それに、学校がそれなりに便利な場所だった。学内には大量の食料があり、家庭科室と食堂には冷蔵庫もある。その気になれば、生き延びられるのだ。

 

そう、そうなのだ。

 

水花はそこでようやく気づいた。今の今まで気づけなかったのが、不思議なくらいだった。

 

これだけ生き延びられる環境が整っているのに、学内には自分と青江しかいないのだ。

 

「……どうしてみんな、ここに逃げ込まなかったんでしょう?」

 

「……さぁ?みんな慌てていたんじゃないかな」

 

「……こ、この学校には地下倉庫もあります……最悪、地下シェルターとしても使えるのに……」

 

そこまで言い終えて、水花は目を見開いた。どうして自分がその事すら知っていたか、理由が分からなかったのだ。例え生徒であっても、地下倉庫の存在、その詳細について、詳しく知っているはずなどないのだ。

 

だというのに、この学校は高校なのか、それとも中学校なのか、水花には分からなかった。学名すら思い浮かばなかった。

  

「あっ」

 

これまでの事を忘れたように、彼女は青江を見つめる。

 

青江も水花を見つめていた。慈しむようでもあり、射るようでもあった。少なくともこれは、良い面だと彼女は確信した。

 

右頬が痛くて仕方がなかった。

 

水花は眉を潜めて、おそるおそる触れてみた。痼だった。いや、痣かもしれなかった。どういう形をしているかまでは分からない。それは恐ろしくなるほど冷たく、石のように固かった。どういうわけか、独立した生き物のようにうごめいている。

 

その痼が、その痣が、かすかにうめいているのが分かった。

 

そこでようやく、青江は観念したように囁いた。

 

「ちょっとおふざけがすぎてしまったかなぁ?……それとも、何度もこうして巡っていると、慣れるのも早くなるのかな。ねぇ、“佐脇ちゃん”?」

 

水花は、佐脇水花は硬直した。

 

×××

 

ありとあらゆるものが一度に襲いかかってきた。

 

そのどれもが星のように、光輝いている。そのどれもが宝石のように、きらめいている。

 

佐脇水花は、それらが巡り続けるのを見ながら、その意味をほのかに伺うように、顔を上げた。

 

それはイメージの奔流だった。

 

佐脇はおずおずと訊ねた。

 

「これは夢?」

 

青江はあっさりと認めた。

 

「ここは夢の世界。今まで君がみてきた全ての世界も、夢ということになるねぇ」

 

「……私、ずっと夢を見ていたの?でもどうして……」

 

「右頬の痣、分かっていただろう?」

 

青江はしっとりと笑みを浮かべ、佐脇の右頬をなでる。果実のようなやわらかな感触を楽しみながら、彼は左手をひろげてみせた。

 

青白い煙が、戯れつつゆらいでいる。

 

久しく忘れていた何かが、佐脇の呼吸によって甦る。死が凍えていくような感覚にふるえながら、青江を見つめた。

 

「僕も詳しくは分からないんだけど、呪詛の類いなんだって」

 

「……私、もしかしてずっと」

 

「うん、そうそう。君はずっと夢のなかにいたんだ。ああした世界を、何度も何度も巡ってね?」

 

「……最後の夢は?」

 

「あれは余興みたいなものじゃないかなぁ」

 

「よ、余興?」

 

佐脇は引きつった声を上げた。ひどく困惑している。青江の発した言葉、その真意が分からなかった。彼女の声にはすがるような響きがあった。

 

青江は佐脇の気持ちを最低限、言葉で満たしてやることに躊躇しなかった。義務というよりは情のそれに近い。しかし決して、情ではなかった。

 

「最後の夢は、ちょっとやりすぎたと反省しているはずだよ。……たぶんね?」

 

青江はわざとらしく笑った。

 

けれど彼の瞳に映ったのは喜びではなかった。深い哀しみが、暗い奥底にたたえられていたのである。

​●無念桜

夜ふけて、無念桜が花開く。

 

花々は静かにゆらめいて、微睡むように舞いおちた。まるで死に身をまかせるように、あおざめた光を灯す。その生じろい幻は香気となって、さみしげに夜をさ迷う。それは幽霊のように、かすかな吐息を繰りかえして、戯れつつ微笑んだ。

 

「――無念桜が舞いおちて、散りゆく際に、うたかたの夢」

 

月夜の底で、艶かしい青江の声が、おぼろ気に震えた。美しく、それでいて不思議な声だった。この声が響くだけで、まるで蜃気楼のように実体のないものに感じる。

 

「なかなか良いよねぇ、これ。桜宴歌なんだって。今僕が歌ったのは、その一節」

「……なんだか悲しい歌ですね、あおさん」

 

鈴の音を思わせる声が、淡く儚げに響きわたって、彼の名前を呼んだ。死にゆく蛍のように力なきそれは、闇夜の彼方へと溶けていく。

 

そのか弱さを愛しく思いながら、青江は悩ましげに笑みを浮かべた。

 

「うんうん、佐脇ちゃんもそう思うだろう?なんたってこれは、無念桜の歌だからねぇ」

「あの、無念桜というのは……」 

「無念桜。その名のとおり、不吉な桜の木のことだよ」

 

青江は別れた情人の名を読み上げるように、ゆっくりと答えた。溶けるような美貌へ、さらに妖艶な気配をつけくわえさせて、無念桜を仰ぎ見た。

 

無念桜は月明りに照らされて、遥か彼方の、深みより浮かび上がる。それは夜気にもたれ掛かるように、ほの白く咲きこぼれて、夜風を誘う。

 

「普通の桜は、時が満ちてしまえば、花びらがバラバラに散って果てる。でもこの無念桜は、あられもない花の形を成したまま、ポトリと首元から落ちる」

 

青江は歌うような口ぶりで、言の葉を紡ぐ。それは麻薬のように甘くて、少しだけ淫ら。まるで夢まぼろしを組敷くように、ねっとりとした何かを孕ませる。その密やかな色香に、佐脇の心は抗うすべもなく溺れてしまうのだ。

 

「品種はどこにでもある普通の桜。散り方のほかは特に変わったところはない。だからね、“これはきっと、無念の中に首を落とされた武士の祟りに違いない”って誰かが言い始めたんだって」

 

「だから無念桜……」

 

佐脇は悲しげに目を伏せる。

 

いずれ溶けゆく残雪を哀れむように、足元に広がる花ビラを見つめた。落ちて付した花の顎が、色あざやかに赤々と煌めている。それはまるで赤い星。美しく、それでいて生々しく燃える星。

 

「君も不吉だと思うかい?」

「いいえ、そうは感じませんでした……」

「おや、それは意外だねぇ。怖がる君を、優しく抱き締めるつもりだったんだけど」

 

青江の面立ちに、少年のような悪戯っぽい微笑が浮かぶ。しっとりとした湿り気を含ませて、挑発的に佐脇の顔を覗き込んだ。彼の吐息は、絞りたてのミルクのように、熱っぽくて甘い。

 

「……私にはこの桜が、とても美しいものに思えるんです」

 

佐脇は何かに導かれるように、ゆっくりと顔を上げた。初めて月食を目する子どものような顔をして、青江を見つめる。彼女の瞳が、狂おしいほど美しく思えたのは、本能以外のなにかが芽生えたからだろう。

 

その美しさに、躊躇いつつもおもむろに、青江は酔いしれる。

 

「それは興味深い。……ねぇ、理由を教えてくれないか」

「……あの、なんだかまるで、お侍さんの涙に思えて。首を打たれてしまったお侍さんが、嘆いて落とす涙に」

「それって、とても不吉なことだと思わないのかい?」

「生きて生きて生き抜いた人の涙が、そんなにも不吉で、怖いものでしょうか」

 

佐脇の声がみずみずしく、より深く輝いて、蜜のような露にぬれる。それはまるで、たまゆらの命がひっそりと身震いして、青江に問いかけているようだった。

 

「さあ、どうだろうねぇ。僕にはすこし、難しいかもしれない」

 

無念桜の影につめたく見守られながら、青江はあいまいに答えた。ふと彼は、まるで何かに呼ばれたように、無念桜を見上げる。

 

花がひとつ、またひとつ、無念桜の木から落ちるのが見えた。彼はあこがれを抱きながら、一心不乱に探り求めるように、その花の後を追う。

 

その花々は青江を惑わすように、うっとりと微笑んでいた。

​●首輪に口づけを

万屋街にきらびやかな陽光が差し込んだ。

 

昼の到来を告げる鐘の音は、銀を流すように美しい余韻を残しながら、青空へと響きわたる。すると夏風がひっそりと身震いして、街の中でほほ笑む。街並みは色あざやかな光を宿して、ゆるやかに輝いた。

 

「きれいな街ですねぇ、あおさん」

 

佐脇水花は笑みを浮かべて、愛くるしい美貌を紅潮させる。審神者と刀剣男士たちが行き交う街道を歩きながら、周囲をみまわした。

 

まるで時代劇に出てくる城下町のようだった。この街が現世にあれば、観光名所としてそれなりの地位を得ていたに違いない。街道の両側には、日用品から洋服までありとあらゆる店が並んでいる。もちろん、怪しげな店はない。

 

「そうだねぇ、佐脇ちゃん。こんなに賑わっているなんて、ちょっとビックリだよね?」

 

にっかり青江は楽しげに頷いた。彼女の傍らで甘ったるい吐息をもらす。刀剣男士というよりは、ただの男として寄り添っているようだった。彼はすべて分かった上でそうしている。

 

「それで、今日はどうするんだい?」

 

青江は意地悪く佐脇を見つめた。女たちをまいらせる美貌に、かすかな諧謔味が添加される。本来なら、今日は二人でゆっくりと過ごしているはずだった。その意味をしっかりと含ませて、小首を傾げてみせる。

 

「まずはあおさんと買い物がしたいです」

 

銀の鈴を振るように美しい声で、佐脇は答える。それからぷっくりとした唇を舌で湿らせて、囁くように言った。恥ずかしそうに目を伏せる。

 

「……その後は、あおさんが望んでいることをしましょう?」

「それはいいねぇ」

 

佐脇の言葉を耳にした青江は気持ちが晴れやかになった。深く息を吐いて、満足げにほほえむ。それじゃ行こうか、と佐脇のなよやかな肩を抱くようにして歩きだした。彼女もそのつもりだったのだろう。最初はおずおずと、しかしやがて遠慮なく、ギュッと肩を寄せてきた。そのまま甘えた調子で青江に訊ねた。

 

「お昼は何がいいですか?」

「何でもいいよ。君の好きな物を食べよう?」

「でも、それだとあおさんが」

「僕は後で君をゆっくりと食べちゃうから、お昼は君に譲るよ」

 

青江はほんのりと湿った声で囁いた。場違いなほど、いや、場違いだからこそなお淫らに響く彼の声音。そこに宿るのは、この上なく甘い熱情。佐脇はそれを耳のすぐそばで感じ取り、背筋を震わせた。体の芯が熱っぽく疼いてしまう。

 

「……まだお昼なのに」

「僕は今からでも構わないけど?」

「もう」

 

佐脇はほんの少し拗すねたふりをして、ぷいと横を向いた。二つに結われた髪がサヤサヤと揺れる。青江は実に楽しげに、そして嬉しげに目を細めた。佐脇はただの女として振る舞うが故に、彼の男心をこれ以上ないほどくすぐる。その甘やかな誘惑をたっぷりと楽しみながら、彼は街道に立ち並ぶ店を眺めた。ふと、気になる店を見つけたので、佐脇に訊ねた。

 

「ねぇ、あのお店は?」

「あそこは宝飾品を扱うお店です」

「どうしてこんな所にあるのかな?」

「それは……」

 

佐脇は視線を宝石店へと向けた。ヨーロッパ建築を模して塗装されている店は、デタラメなほど純白に輝いて見えた。

 

「宝石を用いて術を使われてる方々の為でしょうね。洋の東西問わず、宝石術はとても有名なんですよ。宝石は持ち主の念を溜めやすく、魔力(霊力)を宿しやすいので」

「へぇ、そうなんだ。でもちょっと高そうだよね」

「威力はとても高いですが、コストも高いです。宝石術は使い捨てが基本ですから。なので一般的な審神者は、あまり立ち寄らないお店ですよ」

「君のようなお嬢様しか取り扱えない代物というわけかな?」

「私もああしたお店に入ったことはありません。毎月、お家から宝石は支給されていますから」

「ああ、なるほどねぇ」

 

青江は呆れたように言った。さすがは佐脇家のお嬢様だねぇ、と声もなく呟いた。そういえば僕が君の元へ来たときも、嫁入り道具を三組買い揃えられそうな支度金を用意してくれたな。あれは見栄だとばかり思っていたけど、そうじゃなかったんだねぇ。

 

「……入ってみましょうか、あおさん」

「そうだねぇ。君の気が向いてるなら、行ってみたくもあるかな」

「もう、素直に言ってくれればいいのに」

「ごめんごめん」

 

青江は素直に謝った。そして右手を佐脇の腰にまわして、店内へと誘導する。その意味を即座に理解した彼女は、白磁の頬を紅潮させて、小声で嗜めた。

 

「あおさん、ダメ。まだこんな時間なんだから」

「……今日は僕の女(もの)になってくれるんだろう、水花」

 

青江はやはり小声で、しかし甘くのびやかな音を響かせる。佐脇はポッと耳まで赤くしながら、彼の言葉を受け入れた。焼けるような想いをむき出しにはせず、「はい」と可愛らしい声で答えて、小さな頭を下げる。

 

店内には他に何組か、刀剣男士を従える審神者がいた。その多くは女であり、誰もが刀である彼らを、ただの男のように扱っていた。刀剣男士を得た者のほとんどは、それを恋人としても扱うという。そんな他愛もない話を思い出しながら、青江は店内を見渡した。

 

「見事なものだねぇ、佐脇ちゃん」

 

青江はため息と共に言った。磨きあげられた大理石が張られた店内は、まるで宝石箱そのものだった。陳列された宝石は、星のように眩い光を放ちながら、見る者を魅了している。その手の知識がほとんどない青江でも、これらがこの上なく素晴らしい品であることが分かった。

 

細長い棚に並べられた宝石はすべてむき出しで、手に取れるようになっていた。手癖の悪い客など訪れるはずもないと主張しているのだろう。青江はくすりと笑った。

 

「これはこれは」

 

初めて耳にする声が語りかけた。美しいというよりは、麗しいと称すべき声だった。

 

青江と佐脇は声の主を確かめる。漆黒のスーツを上品に着こなした男が、にこやかな笑みをたたえて深々と頭を下げた。

 

「ようこそおいでくださいました。ご挨拶が遅れました。私、この店の主人を務めます若菜と申します――佐脇お嬢様」

「……あの、失礼ですが……私はあなたに名前を名乗ってはおりません」

「佐脇家のご当主、俊兼様には大変お世話になっております」

「……!父のお知り合いの方でしたか。それは大変失礼いたしました」

 

佐脇は慌てて頭を下げた。男は微笑んだまま、店の奥を示す。

 

「勝手な申し出でございますが、あちらに、お連れ様にもお似合いの品を取りそろえてございます」

 

……店奥には表よりもさらに贅の尽くされた部屋があった。白を基調としたヨーロッパ式ソファーとセンターテーブルを中心に、美意識の高い家具が飾り物のように置かれている。宝石は並べられていない。可愛らしい洋服に身を包んだ娘たちが、捧げ持つように宝石を運び込み、若菜がひとつひとつ丁寧に説明する。

 

その様子を、佐脇と青江はソファーに座りながら見ている。まるで美術品の展覧会だった。ふと、彼らは誰に言うともなく囁きあった。

 

 

「何だか別世界だねぇ」

「そうですねぇ」

「君ってこういうの慣れてないの?」

「いつもお父さんにお任せしていました」

「んふっ、だと思った」

「おかしいですか?」

「いや?君らしいと思ってね」

「何だか馬鹿にされてるみたい」

「ええ?そんなつもりはないんだけどなぁ」

「そうかしら」

「そうだよ」

 

佐脇は口を尖らせ、ぷいと顔を背ける。そのまま視線を、脇に控えている娘達へと向けた。色とりどりの宝石が、酔いしれるように黙々と煌めいている。その美しさに吸い込まれそうになりながら、ふと目に止まるものがあった。娘の一人が捧げ持った化粧箱の中に、一際美しく輝きを放つ宝石が揺らめいている。口に出してよいものか、迷いが生じた。

 

「それは?」

 

青江が助け船を出すように訊ねた。若菜は顔をあげた。さっと立ちあがり、化粧箱の中身を見る。太い眉をしかめて、咳き込むように娘を叱りつけた。

 

「こら、駄目ではないか。このようなものをお持ちしては」

 

佐脇は不思議そうに首を傾げた。そっと緒ともなく近づき、叱られている娘が持っているものを確かめた。当たり前のように青江も付き添う。

 

美しい首飾りだった。二つ揃いで並べられている。否、首飾りというより首輪のそれに近い。上質な革を用いて、満月を溶かしたような黄金の光を放っている。真ん中には、天女の涙を結晶化させたように煌めく水色の宝石が据えられている。その夢まぼろしのような、それでいて麻薬にも似た甘さを含ませる首飾りが、ひっそりと微笑んでいた。

 

「何だろうねぇ、これ」

 

青江は呟いた。脅えている娘に、にっこりと笑みを浮かべる。その軽やかな艶かしさに、娘は頬を染めた。佐脇はもう一度口を尖らせた。尖らせて、何かを訴えるように、指で彼の手をつねってみせる。甘い怒気を含ませて、そっと囁いた。

 

「ダメ」

「んふっ、怖い怖い。とんだ焼きもちやきさんだなぁ」

「……怒りますよ?」

「ごめんごめん」

「もう」

 

佐脇はそれきり何も言わなかった。その理由について、青江は考えないことにした。もう慣れている。佐脇水花という乙女に備わる、あまりにも複雑な内面を目の当たりしていくうちに、理性の一部が麻痺していた。

 

「……ですからこれは、お見せできるような品ではございません」

 

青江は意識を戻した。若菜が説明していた。顔をほんのりと青ざめさせ、首飾りを撫でる。忌まわしい過去を思い出したかのような顔をして、話を続けた。

 

「拵えはたいへんに良いものですが、由来がお二方には不似合いでございます。とある芸術家の最高傑作でございますが、その芸術家が、初めて恋した女に贈ったもので」

「それはとても素敵なお話じゃありませんか」

 

佐脇は訊ねた。どこか不安げに首飾りを見つめている。

 

「……その後、彼らは病に伏して亡くなりました。一説では心中と言われておりますが、真実かどうか定かではございません」

「ご結婚はされていなかったのですか?」

「ええ、身分違いの恋と言われております」

「…………」

「なるほどねぇ」

 

青江は粘ついたものを含ませて笑った。宝石には魂を吸うという言い伝えがあることを思い出した。それを与えた男は、魂を啜りたいほどに女を望んでいることになる。まさに生々しい愛そのものだ。何と美しい、そしてこれ以上ないほど歪。

 

「これが欲しいのかい、佐脇ちゃん」

「はい」

 

佐脇はいわくつきの品を見つめながら答えた。声はじんわりと熱く、優しく、そして淫らだった。まるで、その宝石を身につけることによって、青江という愛する男に自分の魂を啜られることを望んでいるかのようだった。ほんの一瞬、眠るように瞼を閉じる。ぴたりと閉ざされた闇の中で、小鳥のように忍び笑う。

 

「申し訳ございませんが、これは対になってえりまして」

 

若菜が口を挟んだ。困り果てたように、額から吹き出た汗を拭う。粘り気のある汗が、ぼとぼとと滴り落ちてきそうだった。

 

「心配ないよ。僕もそれにする」

「これは……どうも……」

「ねぇ佐脇ちゃん、構わないよね?」

「……ええ、構いませんよ」

 

佐脇はほほ笑んだ。生々しい女の香りを漂わせながら、ゆるやかな吐息を漏らす。若菜は苦笑した。

 

「ありがとうございます、佐脇様。それでは、お届けさせて頂きます」

「せっかくだから、ここでつけちゃおうか?」

「そうですね、つけましょうか」

「これはこれは……仲がよろしいことで……」

 

若菜は呆れたように笑った。

 

佐脇と青江は仲睦まじく首飾りを手に取った。まるで夫婦の契りを交わす男女のように、それを身につける。そして鏡を見た。麗しいふたつの首に、黄金にきらめく革がしっとりと馴染む。喉元で人魚姫の清らかな涙が、まるで青ざめた夢を漂わせるように、ひっそりと輝いた。

 

「お揃いだねぇ」

 

青江はため息と共に言った。湿った声が淫らに響いた。溶けたような美貌へ、さらに妖艶な気配をつけくわえさせて、横目でちらりと佐脇を見つめる。悩ましげに柳眉を下げた。

 

「こんなの初めてですね」

 

佐脇はうれしげに頷いた。吸い込まるように、ただ、鏡だけを見ている。ぷっくりとした唇を半開きにして、目を細めた。

 

その淫らな美しさにうっとりとしながら、青江は微笑んだ。それから彼女の背後に音もなく立って、たおやかな背中に手を置いた。口づけでもしそうな熱烈さで、ねっとりと耳元で囁く。

 

「この後はどうする?」

「まぁ」

 

佐脇は甘いため息を漏らした。子宮がじんわりと疼く。ふっくらとした頬を桃色にほてらせ、目を伏せる。子供をあやすときのような小声で、青江を優しく叱った。

 

「……それはまだダメ」

​●君と僕の夏

夜の帳が下り、祭りは終わる。宴は尽きて、灯籠が青く名残りの光を放つ。妖しげなそれは、絶えず、匂いのように漂い、闇夜をさ迷う。その間にも時はたゆみなく流れて、囁くように告げる。

 

この光は魂そのものだと。

 

「見て、あおさん」

 

涼しげな水色の浴衣を着た佐脇水花が、カランと綺麗な鼻緒の下駄で道を鳴らしながら、足を進める。

 

浴衣の柄は淡いピンク色の花と、色あざやかな紫色の花が、水中花のようにひっそりと咲いている。落ちついた色合いのせいか、ほんのりと大人の雰囲気を漂わせていた。

 

「なんだい、佐脇ちゃん」

 

青江は妖艷とした笑みをたたえて、佐脇の後につづいている。浴衣の襟からのぞくうなじに視線を運ぶ。

 

ほんのりと青さを感じさせる白さ、肌はきめ細かく、しっとりと湿っている。唇と舌で愛撫すれば吸いついてくるだろう。ほっそりとした首筋がおそろしいほど無防備で、思わず舐めてしまいくなる。普段は気にも止めない小さなホクロですら、色っぽさを際立たせているように思えた。

 

「あの川で灯籠流しをしてるみたいです」

 

鈴を転がすように、澄んだ美しい声が響く。それは甘やかな旋律だった。佐脇の声が幾重にも重なりあい、ひとつとなって、青江の心に語りかけてくる。その声を心行くまで楽しみながら、視線を川へと向ける。

 

水面に浮かぶ数多の灯籠が、ゆらゆらと揺らめいて流れていく。青白い灯りが、夢まぼろしのような美しさを秘めて、水面を彩っている。

 

「……綺麗……まるで命の光みたいですね……」

「ああ、そうだねぇ……あれ、死者の魂を弔うものなんだよ」

「そうなんですか……?」

「んふっ、ちょっとびっくりした?」

 

青江は悪戯っぽい笑みを浮かべ、佐脇の横に並んだ。少し首を傾け、肩越しに横顔を眺める。

 

二重瞼の目が大きく、真珠のように美しく煌めいている。初々しい乙女の輝きが好ましい。けれどぽってりとした唇は、ハッとするほどの色気を漂わせていた。少女と女の間、熟しはじめているが、女になりきれていない。そのアンバランスさに、心臓が高鳴った。

 

「……あの、私の顔に何かついてますか?」

「おや、どうしたんだい。そんなことないよ?」

「もう、誤魔化さないで」

「水花ちゃんがとっても綺麗だから、見とれていたんだよ」

「嘘。信じられないわ」

「おやおや、困ったお嬢さんだねぇ」

 

苦笑する青江。ふた呼吸ほどのあいだそのままでいたが、ふぅっと甘い息を吐き出して、優しく抱き寄せる。

 

夏のむし暑さのせいか、浴衣の生地越しにほんのりとした体温が伝わってきた。グニャリと蕩けるような肢体の柔らかさを楽しみながら、佐脇のうなじにねっとりと囁いた。

 

「……だったら、このまま君を食べてしまってもいいかな?」

「あ、あおさん、何を」

 

そして、青江は軽く尻を撫でた。小振りだが、まるで湯を入れた風船のように丸く生温かい膨らみがたわむ。指先をゆっくりと曲げてみる。フニャッと柔らかい脂肪が乗っかってくるのが分かった。

 

ビクンと、佐脇の体が小刻みに震えた。大きく開いた浴衣の襟、その真っ白いうなじが恥じらうように淡いピンク色に染まる。

 

佐脇が切なげに吐息をもらした。ぽてっとした唇は震え、半開きだ。その唇が声もなくゆっくりと動いた。青江だけにはその言葉が聞こえた。

 

「ダメ、こんなところで、やめて」

「じゃあ、別の所ならいいのかい?」

「そういうことじゃないの」

 

佐脇は小さく左右に尻を振り、まさぐりから逃げようとする。青江は逃さないように、しっかりと掴んだ。上下に擦り、さらに左右になで回す。スカートとは違う生地の感触が新鮮で、脳があつくなる。

 

そうしているうちに、佐脇は全身を硬直させ、抵抗をやめた。淡いピンク色に滲んでいたうなじは、真っ赤に染まっている。じんわりと汗が滲み、抜けるように白い肌が悩ましげに輝いていた。もちろん、むし暑さのせいではない。肉体の芯が火照った証拠だ。

 

「じゃあどういうことなんだい?」

 

青江は、さっと佐脇の体から離れた。獲物を捕まえた猫のような顔をして、様子をうかがう。

 

佐脇は汗が浮いてキラキラと輝く頬に困惑の表情を浮かべていた。厚ぼったい唇を噛みしめているものの、瞳は酔ったように潤んでいる。

 

「……わかってるくせに。いじわる」

 

佐脇は小さく息をもらし、ぷいと横を向いた。

 

「おや、拗ねてしまったのかい?」

「もう知りません」

「ちょっとからかいすぎてしまったねぇ」

「…………」

 

佐脇はすねつづけている。その意味について考えながら、青江は楽しそうに笑ってみせた。そしてもう一度抱き寄せてやり、火照った頬を彼女の額にこすりつける。

 

潤んだ瞳が青江を見つめている。濁りなきそれは、自分の心を見透かされているような気がした。美しかった。それこそ、これ以上ないぐらいに。

 

「可愛いねぇ、水花ちゃん」

「…………」

「ああ、まだ怒ってるんだねぇ。……ごめんね?」

 

青江は微笑んだ。それから唇をしっかりと重ね、佐脇の口内を弄ぶ。

 

水蜜桃のようにみずみずしく甘やかな味が舌に絡みついて、濃厚なひとときを感じさせてくれる。時たま、唇を伝ってくる熱ぽい息が、心と体をしっかりと束縛する。その溶けるような香りで肺を満たしながら、ふと彼は、水面上をさ迷う灯籠に視線を向ける。

 

陶酔は冷ややかに忍び笑っているかのように、青ざめた光をひっそりと漂わせていた。

​●プールサイドで

室内プールは証明がともったままだったが、人気はない。

 

いや、佐脇水花が泳いでいた。

 

水音がゆるやかに響き渡る。その甘やかな音の戦慄が、にっかり青江を陶酔へと誘う。

 

ゆっくりとしたクロール。どうやらクールダウンしているらしい。無駄のない、どこまでも美しい泳ぎだった。しぶきも立てることもなく、無駄な音も立てない。

 

ぴっちりしたスクール水着に包まれた体と、すんなりと伸びた手足の白さに、青江の脳が焼けるようにあつくなる。彼は瞳をしっとりと潤ませて、悩ましげにため息をついた。

 

「上手いものだねぇ」

 

青江は楽しげに声を弾ませた。妖艶とした美貌をきらめかせながら、笑みを浮かべる。意味もなくプールサイドのベンチに座り、ただ佐脇を目で追った。

 

ぱしゃり、水音とともに佐脇がプールからあがった。まるでいま泡から生まれでた天女のよう。青江は声をかけぬまま、彼女を見つめていた。

 

「あ……あおさん……来ていたんですか?」

 

髪をくねらせ、肩にタオルをかけた佐脇が小走りで駆け寄る。スクール水着を突き破りそうなほど膨らんでいる乳房が、ゆっくりと上下に揺れていた。濡れた髪。愛くるしい顔に浮かんでいる明るい笑顔。こちらへ急ごうと弾む脚。美しくも淫らな女の香りが、鼻腔をくすぐる。

 

「ゆっくりでいいんだよ?」

「ありがとうございます。でも、今日はもう終わりにしますから」

「それはちょっと残念。君の姿をもうちょっとだけ見ていたかったなぁ」

「見ていたんですか……」

 

佐脇は頬を赤らめ、青江の隣に腰をおろした。濡れた身体をタオルで拭きながら、湿っぽくあつい息をはいた。

 

「嫌だった?」

「そうじゃないですけど……」

「んふふっ、また見せてね?」

 

青江はちらりと横顔を盗み見る。温水にびっちょりと濡れた横顔は、ほんのりと上気していた。清楚ながらも艶かしい色香が、たまらなくいやらしい。青江の体がしずかに疼いた。

 

「あの……私の顔に何かついてますか?」

「いや、何もついてないよ?」

「嘘、ですよね。言ってくれませんか……」

「んふふっ、何でもないって」

「……言って?」

 

 

身を寄せる佐脇。彼女は甘えるように青江を見上げている。深く透きとおる瞳の底には、狂おしい愛の火が灯っていた。その曇りなき火に、何もかもが溶かされていく。それがどうしようもなく、心地よく感じた。

 

「きれいだと思ってね?」

「まぁ……」

 

佐脇の頬がさくらんぼのように、しっとりと染まる。ふた呼吸ほどのあいだそのままでいたが、まるで青江を挑発するように、火照った頬を彼の胸へとこすり付けた。

 

「本当に……?」

「おや、僕が冗談を言うと思うかい?」

「いつもそうじゃないですか」

「おやおや、信用されてないなぁ。……本当にきれいだよ?」

「……うれしい」

 

潤んだ瞳が青江を見つめている。こうなってら我慢できない。服が濡れるのも構わずに佐脇を抱きよせ、唇をしっかりと重ねた。そのまま、吸い込まれるように彼女のやわらかな唇を味わう。まずいたぶるように唇を開かせ、舌を絡ませる。

 

もちろん、佐脇は抵抗を示さなかった。与えられる全てを、心地よさげに受け入れていた。

 

「あおさん……」

 

五分ほどして、佐脇が言った。

 

「……あの、そろそろ着替えてきます……これではその、風邪をひいちゃいます……」

「それは残念だねぇ。つづきは今晩で……いいかな?」

「……はい」

 

更衣室に駆ける佐脇は、とくに胸のあたりを懸命に隠していた。青江はその理由について訊ねることはしなかった。もう分かっている。普段はそれほどでもないものがくっきりと浮き出ている。

 

「ちょっとやりすぎちゃったかな……」

 

青江はひっそりと笑う。佐脇が自分との口づけでそんな反応を示してくれたことに、これ以上ないほどの満足感を得ていた。

​●ある刀装兵の死

分からない、分からないの。

 

子供のようにただ私を慕ってくれて、守ってくれて、そして死んでいこうとする彼らに対して、どう責任をとればいいか分からないの。

 

×××

 

負傷した刀装兵は、軽歩兵と重歩兵がほとんどだった。今のところ、彼らが主力で戦っているからだ。両腕を失った者、脚を切断された者、顔面に重症を負った者、全身を包帯に包まれている者もいる。大事故や大災害でも起きなければ、これほどの負傷者が並ぶことはないだろう。

 

そして、全員が佐脇を見ていた。

 

刀装兵の血と膿、それらが入り混ざって強烈な悪臭を生み出している。育ちの良い娘ならほんの一瞬で卒倒するだろう。

 

しかし佐脇はそうならなかった。それは強さからくるものではない。呼吸すらままならないのだ。石のように固まり、呆然と立ち尽くしている。眼前の異常な情景に怯えきっていた。歩きだそうと思いながらも、足がすくむようで動けなかった。一歩踏み出す勇気すら湧いてこない。

 

「……大丈夫かい?」

 

すっと、背中へ手を差しのべた青江が囁く。佐脇はこっくりと頷いてみせたが、それだけだった。どうしていいか途方に暮れて、視線を泳がせてしまう。そんな彼女の様子を余裕を持って見守りながら、青江は付け加えるように言った。

 

「皆、君の言葉を待っているよ?」

「……あっ、は、はい」

 

佐脇はハッと何かに突かれたような顔をして、もう一度頷いた。頷いて、刀装兵たちを見回す。口の端が痙攣を起こしたように震えたまま、かろうじて挨拶する。

 

「あ、あの……さ、審神者の佐脇です……」

 

低く唸るような声が刀装兵たちの喉から洩もれた。彼らは強烈な痛みにこらえながら、佐脇に敬礼している。中には、手首から先が切り落とされた腕で懸命に敬礼しようとする者もいた。その痛々しいまでの忠誠心が、心の呪縛を解き放つ。目に見えない何かが消え失せていく。

 

そこでようやく、佐脇は歩き出す事が出来た。一歩一歩踏みしめるようにして、刀装兵たちに声をかける。

 

「……審神者の佐脇水花です。あの、あなたは」

 

佐脇は包帯で全身を包まれた軽装兵に話しかけた。理由は簡単だった。ベッドに寝かされた軽装兵は、かなりの重症を負っていたのだ。おそろしげな事に、かれの顔色は黒に近い色合いに変化している。

 

「……軽装兵の太吉であります、審神者様」

 

軽装兵の太吉はベッドにぐったりと横たわっていた。起き上がる力もないのだ。佐脇は青白い頬に微笑を浮かべてみせる。顔の筋肉が痙攣していたが、それを全て無視した。そうする必要があると心から思ったからだ。太吉の傍らにかがみこんで、青江を横目で見た。彼は首を横に振った。

 

「……火で全身を焼かれたらしいねぇ」

 

青江はそう言ったきり黙りこんだ。佐脇の愛くるしい瞳が引きつる。彼の言葉が、心臓へ突き刺さる刃そのものに感じた。重度の火傷……薬ではもう効果がないほどの火傷なのだ。

 

「……よく、よく頑張ってくれました……」

 

佐脇は言った。太吉に何を言うべきか分からなかった。しかしだからこそ、言わなければいけない事だけは分かった。それだけはハッキリと分かっていた。その言葉を出来る限りゆっくりと言って、彼女は頷いた。まるで許しを乞うように、かれの手を握りしめる。包帯の隙間からわずかにのぞく肌は真っ赤に焼けただれていた。その手は焼けるようにあつかった。

 

「……本当でありますか!」

 

太吉は目を輝かせた。しかしその顔には、あきらかな死相があらわれていた。佐脇の頭の中で、数多の感情が目まぐるしく駆け巡る。まるで迷路に入り込んだような気分だった。思考にブレーキをかけたくてもそれが出来ない。何もかもが混乱していく。だから佐脇は一生懸命考えた。考えて、太吉の気分を少しでもいまの辛さから逸らせてやるべきだと思った。

 

「……ですから、ですから今はお休みください。もうすぐ戦は終わります。そしたら一緒に本丸へ帰りましょう」

「……本丸に」

 

太吉は苦しげな息をしながら、血で薄汚れた歯を剥き出した。赤ん坊のように無垢な笑顔だった。佐脇の気持ちを察して、かれは精一杯笑っているのだ。

 

「本丸の桜はもう咲いているでしょうか」

「桜……?」

「庭先に大きな桜の木があるでしょう?自分は顕現して間もないので、まだ桜の花というものを見たことがありません。とても美しい花を咲かすと聞いております」

「……とても、とても美しい花ですよ」

 

佐脇は強い、押し殺した声で言った。彼女は分からなかったのだ。子犬のようにただ自分を慕ってくれて、守ってくれて、そして死んでいこうとする彼らに対して、どう責任をとればいいか分からないのだ。

 

美しい顔が首筋のあたりまで真っ青になる。乙女らしい硬い線を持った細い首筋に汗が滲む。身も心も凍ってしまうほどの恐怖が、佐脇という乙女の命を蝕んでいく。

 

「……淡い桃色の花びらが幾重にも積み重なって、春風と共に踊っているんです。最後は粉雪みたいに花びらを散らせていきます。……それはとても、とても綺麗な光景ですよ」

「……きれいなんだろうなぁ、見たいなぁ」

「一緒に見ましょう。おいしいお弁当を用意して、皆で一緒に見ましょう」

「審神者様も一緒に見てくれますか?」

 

太吉は痛いほど佐脇の手を握りしめていた。しかし痛みは感じなかった。頬が濡れていることにも気づかず、佐脇はかれの手を握り返した。

 

唐突に理解したのだ。

 

太吉は信じている。佐脇水花という不完全な審神者を。自分を顕現させ、命を与え、そして育ててくれた。かれにとって佐脇は親そのものだった。だからこれほどの傷を負っても恨みごとひとつ口にしないのだ。それは他の刀装兵たちも、いや、刀剣男士たちも同じだ。かれらは審神者を心から信じている。いや、信じると覚悟を決めているのだ。だからこそ審神者も、彼らの為に戦わねばならない。

 

「……私も一緒ですよ」

 

佐脇はむりやり声を押し出した。

 

「私も一緒です。……だから、だから太吉さん、あなたも一緒に見ましょう。きっともうすぐ桜が咲きます。だから、だから」

「良かったぁ……今から、今から楽しみだなぁ……本丸に帰りたいなぁ……」

 

太吉は安堵の笑みを浮かべ、ふうっと大きな息をついた。それからゆっくりと瞼が落ち、咽喉の奥で小さな音がして、幼い刀装兵は息を引きとった。

 

佐脇のなかで何かが崩れ落ちた。

 

「……太吉さ、太吉さん!?」

 

ぞっとするような思いとともに佐脇は呼んだ。しかしそれでも、太吉は答えない。

 

「太吉さん!しっかりして!本丸に帰りましょう!?みんなと一緒にお花見をしましょう!目を、目を開けて!ねぇ、太吉さん!太吉さん!ねぇ、あおさん!太吉さんが、太吉さんがぁっ!」

「……彼は刀装兵としての役目を終えたんだよ」

 

青江は答えた。佐脇に視線を与えず、ただ、亡骸に成りはてた太吉を見つめてた。哀れむ素振りは一切なかった。彼は戦場で人が死んでいく事に慣れていた。いや、慣れてしまった。しかし子供のように泣きじゃくり、太吉の死を悲しむ佐脇に対して、どう接して良いか分からなかった。

 

にっかり青江は佐脇水花とどこまで親しくなるべきか決めかねているのだ。この若い審神者はまだ何も理解していない。戦場における命の値段さえ分かっていない。いや、分かろうとしていないのだ。

 

どうして僕は彼女の刀になろうと思ったんだろうと、青江は声なき声で呟いた。考えても分からないな。いや、理由なんてないのかも。だって僕は刀だから。それ以外の感情なんて付属品のようなものさ。

 

「……君の気持ちは想像するしかない」

 

青江は低い声でそっと言った。

 

「でも、ひとつだけ分かっている事がある」

 

佐脇は子供のような顔で青江を見つめた。彼女の潤んだ瞳がいっそう潤み、唇はそれよりもなお濡れて光っていた。まるで何かを懇願するかのような瞳に、青江は吸い込まれそうになる。彼はその全てを無視して、佐脇をまっすぐに見返した。

 

「君は審神者だろう。審神者なら義務を果たすべきだ。僕や刀装兵の彼が義務を果たしたように。生まれも育ちも違うけれど、僕らの目的は同じさ。そうだろう?」

「義務、義務ですって……」

「それが戦だよ」

 

青江は言った。乾いた声がしずかに響き渡る。それは冷酷な刀そのものだった。慈悲もなければ容赦もない。どこか、彼の奥深くでとぐろを巻いた何かが要求したものだった。

 

「僕たちは戦をしているんだ。まともでいられる贅沢を楽しむ余裕なんて、今の僕らにはないんじゃないかな?」

「……分かったようなことを言わないで下さい!」

「君よりは分かってるつもりだよ。僕は実践刀だからね」

「だったらどうして、どうしてこんな子まで死ななきゃならいんですか!教えて下さい、どうしてそこまでして戦うのですか!」

 

佐脇はわめき、ぽろぽろと涙をこぼした。全身が凍えているかのように震えている。完全に混乱していた。

 

「彼が死んだのは、君の命令を忠実に実行し、それを果たしたからだ」

 

青江はきっぱりとはねのけた。彼の言葉、その最後の部分はひどく大きな声で発せられた。切り捨てるような勢いがあった。

 

「……太吉さんを殺したのは私だと言いたいのですか」

「いざという時、僕らは君の名を叫んで倒れる。この意味すら分からないなら、君はそこで彼の亡骸を抱いてやればいい」

 

青江はそう言いきって、佐脇に背中を向けて歩き出した。その冷酷にすら思える振る舞いは、絶対にただの美青年が出来るものではなかった。佐脇はまったく表情の失せた顔でそれを見つめる。左右に大きく首を振って、悲しみ嘆く。

 

「やれやれ」

 

青江が呟いた。佐脇の耳に、彼のもらした呟きが、かすかに届いた。

 

「君にはそういう姿がよく似合うよ」

「……!」

 

佐脇は目を大きく見開いた。何か大切なものが失われつつある事に気づいたようだった。そこでようやく、自分が泣いている事に気づいた。洋服の袖で涙を拭う。それでも視界はうっすらとボヤけていた。佐脇は唇を噛んだが、やがて何かを取り戻すように立ち上がった。立ち上がって、青江の後を追う。

 

「……私も、私も行きます」

 

青江は振り返った。眼光は刃のように鋭いが、少し呆れた顔をしている。彼はかすかにため息をもらして、佐脇の元へと歩み寄った。

 

「体調が優れないなら、石切丸さんに伝えておくけど」

「いいえ、行きます。私も審神者ですから」

「……強いんだね」

 

佐脇は答えなかった。しばらくの間、青江は続く彼女の言葉を待っているようだったが、佐脇が何も言わずにいるとそのまま歩きだした。それから数分、佐脇と青江は二人だけで肩を並べて歩き続けた。

 

重苦しい沈黙がしばらく続いたが、佐脇が躊躇いつつもおもむろに呟いた。

 

「あおさん」

「何かな?」

「ありがとうございます」

「……どうしてそうなるんだい?」

「あんな風に言ってもらわなければ、気づけませんでしたから」

「気付く?」

「……卑怯者になるところでした」

 

佐脇は頷いた。確かにその通りだった。佐脇水花は完璧な審神者ではない。その欠片すらないのかもしれない。

 

しかし死に際しても、ただ自分のことだけを案じてくれた刀装兵の想いを裏切るような卑怯者になるつもりはないと、彼女は告げているのだ。

 

「僕は思った事を口にしただけだよ」

 

佐脇はもう一度目を見開いた。こくんと喉が鳴った。どうしたわけか、頬を染めていた。彼女は首を横に振る。

 

「それでも助けてくれたことに変わりありませんから」

 

佐脇がそっと手を伸ばし、青江の手を握った。それからほっそりした指を絡ませ、泣きはらした顔で微笑みかける。

 

青江は素直に驚いた顔を見せたが、すぐ元に戻した。気に入らないねぇと思っていた。戦はもっと残虐で、救いのないものなんだけど。もうちょっと冷たくても良かったのかな。うん、気に入らないなぁ。

 

こんな戦、僕はあんまり好きじゃない。

​●まどろみの中で

佐脇はまどろみの中で涙をこぼした。それは熟れた果実のように、ふくよかな甘さを含ませている。ひたひたと静かな音を立てながら、頬を伝って床に落ちる。

 

その美しくも淫らな魔性が、刀の刃を濁らせる。まるでしおれた庭を濡らすように、乙女のそれは刃の奥底へと染み込んでいく。

 

これを呪いと呼ばずして、何と呼ぶべきか。

 

「……あおさん」

 

佐脇は鈴を転がすような声で、愛刀の名前を呼んだ。命を殺める道具への呼び声としては、あまりに熱を帯びすぎていた。まるで恋しい男を求めるように、酔いしれた瞳で愛刀を見つめる。ぷっくりと濡れた唇からは、甘い香りが匂い立っていた。

 

「今夜はずっと傍にて欲しいの……」

「それは構わないけど、どうしたの?眠れないのかい?」

 

あおさん――にっかり青江は柳眉を下げ、佐脇の肩に手をまわし、抱き寄せた。やわらかな肌の感触を楽しみながら、ねっとりと囁く。

 

「それとも僕に甘えているのかな?」

「怖い夢をみたの」

「それはどんな夢?」

「深い海の底で溺れてしまうの。死んでしまうかと思った」

「ただの夢だよ、そんなに怖がることはない」

「それでも傍にいて……本当に怖いの……」

「はいはい」

 

青江は微笑んだ。微笑んで、佐脇の頬に軽い口づけを与える。ふと青白い光が漂っていることに気づいて、何気なく視線をそちらに向けた。射し込んでいるのは月光だ。濡れたような光に、にっかりと笑う女の顔が浮かび上がっている。

 

青江の鼻が不思議なものをかぎとった。ひどく懐かしい香りだった。血にまみれた生物の香り。生と死が複雑に絡み合って生まれでる香り。どんな香水よりもすばらしく甘い命の香り。

 

「……あおさん?」

 

佐脇が不安げに見つめている。わずかな月明かりのもとでさえ、戸惑っているのが分かった。頬を真っ赤にして、恥じ入る乙女の振るまいは妙に艶かしい。ただ清純なだけでは、こんなにも甘い毒を宿すことなんて出来やしないだろう。

 

青江はもう一度だけ微笑んだ。ジッと見つめている女を無視して、佐脇に口づけた。見せつけるように舌を絡ませ、激しくも切ない口づけを交わし続ける。

 

例えどれだけ浅ましく愚かしい行為であったとしても、やらずにはいられない。

 

呪いよりもはるかに深いものが、それを命じているのだ。

​●アイスキャンディー

「……あおさん」

 

小さな鈴を振るような、可憐で愛くるしい音が響きわたる。青江は顔をあげた。眼前では、可愛らしい乙女が頬を赤く染めて見つめていた。黒くて大きな瞳をウルウルと潤ませている。その意味に気づけぬほど、彼は愚かではなかった。

 

長い前髪をサラリと揺らめかせ、困ったように頬笑む。

 

「これを食べ終えてから、ね?」

 

青江は見せびらかすように、手にしていたアイスキャンディを軽く振った。ポタポタとやさしい音とともに水滴がこぼれ落ちる。舌が水色になってしまいそうなほ色鮮やかなそれは、彼の好物だった。

 

「さっきも食べてました」

「おやおや、今日はいつになく我慢弱いねぇ」

「そんなこと、そんなことありません」

 

佐脇はそう言うや否や、青江の体を後ろからギュッと抱きしめた。甘えるような声をもらして、豊かな乳房をムニュムニュと波うたせる。むっちりとした肉の感触が背中から伝わり、青江はため息をついた。

 

「困ったお嬢さんだねぇ」

「だって……」

「だって?」

「……あおさんが焦らすから」

「そうかなぁ」

「そうですよ。もうからかわないで」

「はいはい」

 

青江はアイスキャンディを頬張った。ラムネ味のそれはおそろしく甘く、冷たく、 そしてシュワシュワと弾けながら、口のなかで溶けていく。そのみずみずしい味を楽しみながら、彼は佐脇の頭を撫でた。やわらかく美しい発色の髪が、指の間からこぼれ逃げていく。まるで淡い夢のようだと思った。

 

「あおさん……」

 

佐脇は弱々しく言った。苦悩と憂いにあふれた目からは、今にも涙がこぼれそうだった。さすがにからかいすぎたかもしれないと、青江は後悔の念を抱いたが、その泣きそうな顔にそそられる。それに煽られるように、青江は佐脇の頬をねっとりと撫でた。

 

「……んっ」

 

佐脇は小さな体を震わせた。優しさだけではない、おそろしく淫らな愛撫を受けながら、子猫のような鳴き声をもらす。青江は目を細めた。そのまま可愛がっても良いと思ったが、それでは味気ない。欲望に溺れてしまうのは嫌いじゃないが、それだけに固執する趣味はなかった。ぷっくりと愛くるしい佐脇の唇に触れながら、青江は挑発するように頬笑む。佐脇は不安そうに、しかし淡い期待を抱きながら、上目遣いに彼の顔を見つめる。

 

青江は視線を絡ませたまま黙ってうなずくと、指を立てて口元にあてた。

 

「もうちょっとだけ、ね?」

​●青年のような爺

軽やかな足音が廊下に響いた。にっかり青江の自室に向けて歩いてきたのは佐脇水花だった。廊下に人影はおらず、護衛の刀装兵もいない。明日の審神者会議に向けて、仕事にかりだされているのだ。

 

そろそろ午後三時。佐脇は紅茶とおやつののったお盆を手にしていた。弾むような足取りで歩きながら、奇妙な歌を口ずさんでいる。

 

「カステラ一番 電話は二番 三時のおやつは本明堂~」

 

その歌は本明堂の「カステラ一番」のCMソングだった。数百年前、テレビがようやく一般家庭に普及しはじめた頃から歌われている有名ソングである。そんな歌を口ずさんでしまうほど、佐脇水花はご機嫌であった。

 

「……あおさんは少し疲れてるみたいですから、とっても甘いザッハトルテにアイスクリームと生クリームを山盛りにしてしまいましたぁ」

 

誰にともなく呟いた佐脇は廊下を進んだ。愛くるしい美貌をほんのりと紅潮させ、にっこり頬笑む。この場に石切丸や長谷部がいたならば、きっと嗜めてくれるだろう。ザッハトルテの甘さは相当なものだし、そこへさらにアイスクリームて生クリームを載せるというのは、ある意味凶悪に等しい。一般的な味覚の持ち主が口にしたら、歯が不愉快なほど疼いてしまうほどの、凶悪な兵器である。

 

むろん、佐脇がそれを知るはずもない。

 

「あおさん、喜んでくれるかしら」

 

扉の前に立った佐脇はノックしようとして思い止まる。ぷっくりとした唇を指でなぞって、イタズラめいた笑みを浮かべる。どうせなら気づかれないように入り込んで、ビックリさせてやろうと思い付いたのだ。

 

彼女は正面から部屋に入らず、その横に設けられた控室に続く扉を開ける。そこからも青江の部屋へ入ることが出来るからだ。

 

音を立てないようにそっと扉を開け、忍び足で歩く。青江の部屋へと続く扉をしずかに開けようとして、思い止まった。青江と石切丸の声が響いていた。ほんの一瞬だけ思考を巡らせて、佐脇はその場で立ち止まる。

 

静かな水面に石を投げ込んだかのように、胸が騒ぐのを感じた。

 

「……最近、胃もたれがひどくてねぇ」

 

青江だった。耳の奥に絡みつくような、しっとりと甘い声だった。しかしそれだけでは決してない。どこか皮肉めいた響きがあった。

 

「年を取ると、胸やけや胃もたれを起こしやすくなるからね。胃薬なら後で用意しておこう。辛いときはすぐに言わなきゃ駄目だよ」

 

石切丸は即座に答えた。案じるような、それでいて嗜めるようだった。どうしてそんな口振りなのかと、佐脇は混乱してしまう。しかし考えても答えが分からない。まるで頭に霧がかかったようにモヤモヤしている。それがもどかしかった。

 

「僕にだって見栄というものがあるのさ。例えお爺ちゃんでも、半分は男だからねぇ」

 

青江は強く言った。彼の声にはすがるような響きがある。要するに、女の前では強くありたいという男の本能が働いているのだ。それがある種の幻想であったとしても、青江は口にせずにはいられない。

 

石切丸は何も言わなかった。音という音を押し込めたかのような沈黙が広がる。

 

「……ところで、今日の夕飯は何かなぁ?」

「水花さんお手製のとんかつだよ」

「トンカツ……」

「その胃の調子では難しいかもしれないね」

「まさか。僕も食べるよ?お腹もそろそろ空いてきたしねぇ」

「強がるのと無理をするのは違うと思うよ」

「……んふふっ。僕は戦ってるんだ、これくらいは普通さ。それに戦慣れはしてるからねぇ」

「青江さん……」

 

青江は立ち上がった。立ち上がって、上体を真っ直ぐにして昂然と出口へと歩きだした。彼はもう慣れていた。いや、覚悟しているのだ。

 

佐脇水花という女は単純な愛情では捉えきれない。それは手料理も同じであった。彼女の料理は破壊と創造によって生まれた“芸術作品”そのものだった。一度口にすればもう二度忘れられない。忘れたくても忘れられない。そんな究極の手料理。

 

「震えがくるほどに楽しみだよ……佐脇ちゃんのトンカツの事だよ?」

 

青江は必要以上に妖しく笑いながら部屋を後にした。

 

「……!」

 

控室にいた佐脇は青江にトルテを食べさせるタイミングを完全に失っていた。青江と石切丸の話を聞いているうちに、出られなくなってしまったのである。

 

「あおさん……」

 

佐脇はひっそりと呟いた。熟れはじめた果実のような下唇を噛んで、しずかに震えた。どんなものよりも柔らかい唇から血の気が失せる。愛くるしい顔は真っ青だった。心のなかで、何度も同じ事を呟いた。

 

あおさん、あおさん、あおさん、あおさん。

 

あおさんは、あおさんはいつも私の料理をおいしいって言ってくれた。それを信じていつも作ってきた。だから、だからなの。料理本も買って、料理番組も見て、それから毎日勉強したの。そうやって毎日作ってきた。今もそう、そしてこれからも。ずっと、ずっとそう信じてきた。

 

佐脇はトルテの載ったお盆をそっと小さなテーブルへ置いた。ゆっくりと深呼吸して、気分を落ち着けようとする。それでも心と体の熱を冷ます事は出来なかった。ぷっくりとした唇を開き、息を吸い込みかけて……ようやく気づいた。肺が、吸い込むより吐きだしたがっていることにはじめて気づいた。

 

「あっ……」

 

あわてて口を押さえた。腕が、肩がふるふると震えていた。喉奥から嗚咽によく似たものが何度か漏れる。場違いなほど甘ったるい声音がひっそりと響き渡った。体の中から何かが抜け落ちてゆくような感覚を覚え、そのまましゃがみこんだ。

 

そうなのね。

 

佐脇は声を出さずに呟いた。

 

そう、そうなのね。

私の手料理をそんなに、そんなに愛してくれていたのね。

 

トクンと胸が高鳴った。我慢できなくなり、出来る限り足音を忍ばせ、廊下にでる。台所に戻るつもりだった。もっともっと手の込んだ料理を愛する男に振る舞うつもりなのだ。

 

……翌日、にっかり青江は体調不良で内番を休んだ。

​●金米糖

「……金米糖、お好きなんですか?」

 

佐脇水花は小首をかしげて青江に尋ねた。上目使いの甘えているような表情で、彼だけを見つめている。そのちょこんと愛くるしい瞳があまりにも可愛らしくて、青江は思わず覗き込んでしまった。

 

「……あ、ごめんなさい……き、気になってしまって」

 

佐脇は恥ずかしそうに目を伏せ、呟いた。その吐息は狂おしいほどに甘くて、ういういしい。青江は忍び笑ってみせた。困ったお嬢さんだと、心の中でポツリと呟く。

 

咲き始めの桜ように儚く、それでいて果実を熟させたように濃密な佐脇の色気は、青江の獣欲をこれ以上ないほど煽ってしまう。それを満たす術は一つしかない。しかしだからといって、ただの獣に成り下がる趣味はなかった。彼は手に持っていた金米糖を、佐脇へと見せつけるようにした。

 

「そんなにコレが気になるかい?」

「……そうじゃなくて、金米糖なんて食べてるとこ、見たことなかったから」

「そうだったかなぁ」

「そうですよ。好きなら言ってくれれば良かったのに」

 

佐脇は薄桃色の頬をふくらませ、すねている目で青江を見つめる。その甘やかな誘惑に魅せられながら、彼はねっとりと目を細めた。

 

「怒ったのかい?」

「怒ってません」

「おやおや、困ったお嬢さんだねぇ。せっかくだから、君の舌で弄んでみたらどうだい?……味見してみたらって事だよ」

「……一つだけ頂きます」

「んふふっ、やっぱり気になっていたんだねぇ」

 

青江はくすくすと含み笑った。それからしばらくの間、金米糖を意味ありげに見つめていたが、とうとうそれを口に含んでしまった。

 

「まぁ」

 

佐脇は驚きの声をあげて、怒ったように柳眉を逆立てた。

 

「ひどいわ、あおさん。何もそこまでする事ないじゃ――」

 

それは一瞬の出来事だった。佐脇は全て言い終わらないうちに、青江によって唇を塞がれてしまった。熱っぽく湿った唇の感触が伝わるたび、何ともいえない感覚が全身に広がっていき、体の力を奪っていく。

 

「あっ……うんっ……」

 

佐脇は子猫のように体をくねらせて、その全てを拒もうとした。しかし青江はそれを許さず、彼女のたおやかな肩に腕をまわし、グッと抱き寄せ、濃厚な愛撫をゆっくりと与えていった。それは熟した蜜のような口づけだった。驚くほどやわらかな感触の舌で、金米糖を口移しで押し込んでいく。

 

「……んんっ」

 

与えられた金米糖の味が口いっぱいに広がっていく。それはふんわり甘くてほんのりしょっぱい。まるで海を漂う月のよう。口どけなめらかな味わいは、舌の上で踊ってとろける。思わず飲んでしまう。甘みがゆるやかに溢れ出し、青江の舌がそのみずみずしさを追い求めるように絡みついていく。それは美しくも淫らな行為だった。

 

「……あ……んぅ……っ」

 

子宮がやんわりと疼き、佐脇の全てを痺れさせていく。やがて何かを受け入れたように、豊かな乳房をわざとらしく押しつけた。すると唇の端から溶けた金米糖の雫がこぼれて、自身の胸元へと滴り落ちてしまう。

 

青江はそれを待ちわびていたかのように唇を離し、佐脇の唇からこぼれた雫を追いかけた。

 

「やぁっ……あ、あおさん……」

 

佐脇は甘えるような声で喘いだ。生地越しに、青江の舌が熱く押しつけられる。布地を口に含んで、彼は落ちた雫をいたぶるように吸った。

 

「あぁっ……」

「こういうのも嫌いじゃないだろう?」

 

青江が鼻で笑うように、ふっと声を漏らした。それから佐脇の乳房を下から上へ押し上げるように揉み回す。佐脇は子猫のような声で鳴いたが、抵抗はしなかった。とろんとした目で青江を見つめ、可愛らしく頷いてみせた。

 

「好きっ……」

「あぁ……君はおりこうさんだねぇ……」

「……あ、あおさんは、好き?」

 

青江は艶かしい笑みを浮かべながら、佐脇のあちらこちらをくすぐりはじめる。彼女の体は自然と反応して、ゆっくりと狂いだした。

 

青江が他の行為に手を染めたのは、三十分もあとのことだった。

 

×××

 

男らしい怒声が本丸内に響きわたった。

 

「くっそぉぉぉぉぉぉぉ」

 

おそろしくも醜い形相で、城丸がのしのしと歩いていた。トレードマークである太まゆ毛をつり上げ、舌打ちとともに拳を打ち合わせた。

 

「誰だよぉぉ、桜あられの金米糖盗んだ奴ぅぅ!京都にしかない限定品なんだぞぉぉ、絶対に許さねぇぇぇ!深夜0時に地獄通信にアクセスして、地〇少女に恨み晴らしてもらうからなぁぁぁ!」

 

……という有り様ですが、城丸ちゃんは今日もお元気です。